筆山編集長の週末寝物語

その1から22

◆野閑人@週末寝物語22

やっぱり歌舞伎のことを書きよったら、話題が多すぎて、
つい長うなってしまうねえ。


<芝居の話その二>

・役者気質

 江戸の役者気質も、一面で典型的な江戸っ子気質である。
 文化・文政・天保の江戸最盛期の、座頭役者の収入と言うものは、一年の給金とヨナイを合わせて、千五百両ほどになったという(今の金で一億二千万円ぐらいか)。ヨナイというのは加役ヨナイといって、役が多い時の割増し分である。一年に千両以上取る役者を『千両役者』といった。座頭(ざがしら)役者は収入の多い分、相応に贅沢な生活をした。
 市川海老蔵(のちの七世団十郎)の豪奢な生活は、実際役人の目に余るほどであった。深川木場の家の豪奢さは、玄関の上り框は漆塗り、格天井を金泥で塗りつぶし、邸内に不動堂を建て、伽羅木の尊像を安置し、庭の木石泉水など、大名屋敷にもないような数寄をこらした。水野より小人物で苛烈きわまりない南町奉行鳥居耀蔵に目をつけられ、とうとう天保十三年(1843)わずかの法律違反を鳥居につかまれ、欠所の上、江戸追放になった。それから九年後の赦免まで江戸市民は海老蔵の芸を見ることはできなかった。
 十二代目羽左衛門などは、台所に石室をかまえ、魚河岸から生きた魚をとりよせて、生けておき、上等の酒と料理をとり、毎晩、役者、狂言方、その他の芝居者を集めては酒盛りをした。羽左衛門は、酒盛りの途中で必ず一眠りし、目が覚めて、また飲みなおすのが癖だった。その時に初め居ただけの人数がいなかったら非常に機嫌が悪かったという。
 名女形坂東しうか〔文化十年(1814)~安政二年(1855)〕は伝法肌の女を演じるのを得意にしただけあって、平生の生活も放胆不羈(ほうたんふき)であった。木場の材木問屋をしている贔屓客から「土蔵を建てるように」と貰った大金で、白米を買い、右から左へ、貧乏人に施したりした。しうかは給金が上がれば上がるほど貧乏した。客から貰った祝儀が宵を越すことはまず無く、居合わす者へ分配したり、大勢引き連れて、遊びに蕩尽したりした。しうかは、弟子、役者、木戸芸妓、落語家、幇間など、毎日二、三十人と台所で食事したという。食客が二、三十人居たことと同じである。これじゃいくら給金がよくても貧乏するはずである。

・江島騒動

 芝居小屋が猿若町に移転するずっと以前、正徳四年(1715)に、芝居にからんで、上は将軍家から下は町民にいたるまで、江戸を大震撼させた事件が起きた。最終的に処分された人数が、武家、町人を合わせて千名以上にのぼるという大事件であった。世に言う『江島騒動』である。
 この頃になると、芝居風俗も武家階級にまで浸透してきており、江戸城大奥のような場所でも芝居が話題となり、高級女中の間で、贔屓の役者が出来るような、そんな時代になっていた。
 徳川七代将軍家継の頃、家継の生母の三位月光院に仕えてお気に入りの老女江島が、月光院の代参として、正徳四年正月十二日、芝増上寺へ向かうこととなった。当日は、将軍生母の代参であるので、末々の女中や共侍まで合わせ百三十人という大行列であった。江島は増上寺の代参をそこそこに済ませ、帰城の途についたが、江戸城には向かわず、大行列を引き連れて木挽町に向かい、山村座の二階桟敷に陣取った。江島は、芝居を見ながら、座元山村長太夫、作者中村清五郎、俳優生島新五郎などを相手に酒宴を初め、さかんに盃を重ねた。更に芝居小屋から長太夫宅へ移動し、更に大酒を飲み、午後四時頃、今度は山屋という茶屋の二階座敷へ席を変えて、飲めや歌えの大騒ぎをし、日没後の八時頃、平河門から帰城した。
 翌日、このことが、表(用人部屋)の老中、若年寄に知れて問題となった。早速、詮議が始まり、取調べの進行につれて新五郎はじめ、清五郎、長太夫その他と江島との関係がだんだん明らかになってきた。殊に生島新五郎の娘を大奥に入れて、江島はその子を自分の部屋子として寵愛したことや、ひどいことに、新五郎が、後藤呉服店からの衣装長持に忍んで江島の部屋に通ったことなどが、老中の心証をひどく害した。
 江島は二月二日に職を免ぜられ、実兄白井平右衛門方の座敷牢に収容された。同時に、芝居見物に関係した老女達とその召使合わせて、三百人の女中が江戸城から追放された。二月四日に芝居者の大検挙が始まり、新五郎は入牢仰せ付けられ、二月八日に山村座は断絶させられた。
 その後お上の判決により、生島新五郎は伊豆大島遠島、江島は信州高遠藩お預け、江島の兄の平右衛門は妹の管理不行届きで切腹、後藤呉服店は閉門、その他追放、改易等で、上下合わせて千人以上が処罰された。後に、関係者はすべて赦免されて江戸に戻ってきたが、江島だけは許されず信州の配所で没した。
 以上は、明治になってから出来た新作歌舞伎『江島生島』の筋立てとほとんど同じであるが、実は江島騒動には隠れた別の原因があった。それは、大奥における勢力争いである。先代(六代)家宣将軍の御台所(正室)である天英院を囲む勢力と、七代家継将軍の生母である月光院を囲む勢力の勢力争いが、表の役人まで巻き込んで先鋭化していた。江島の不行跡を、天英院側の勢力が月光院側の勢力をそぐために利用したという、表沙汰にできない理由があったのである。
 大奥女中の風儀もさることながら、その頃の役者といえば、舞台の芸よりも不義密通や色恋沙汰に重きを置くような乱脈さがあったという。


参考文献:
    『鳶魚江戸叢書 第七巻』 三田村鳶魚
    『江戸から東京へ 第一、二、三巻』 矢田挿雲


◆野閑人@週末寝物語21

けふの昼間は暑かったの。ゆふがたから小雨模様で涼しくなった。

<芝居の話その一>

 江戸の娯楽として、芝居は最大のものであろう。祭りや相撲や両国川開きも、江戸っ子には大きな娯楽であったが、男が遊ぶ歓楽境、新吉原を除き、男女が楽しめる常設的な娯楽としては、やはり芝居が最大のものであったろう。今回は江戸歌舞伎芝居の歴史をざっと眺めてみようと思う。

・猿若町

 江戸時代の芝居町といえば、浅草観音の裏(奥山)の更に奥、待乳山の麓から西に開けた隅田川沿いの猿若町ということになる。猿若町一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に森田座(時に河原崎座)を中心に、結城座、薩摩座の人形芝居などが栄え、少し北の新吉原と斜めに呼応して、浅草寺の裏手一帯に広く、江戸の鳴り物気分を漂わしていた。江戸の芝居は猿若町にしか無く、他の場所では禁じられていた。と言っても、実は、江戸の芝居が猿若町という場所に限定されたのは、天保十三年(1842)四月以降なのである。以後明治二十年頃までの約半世紀間、猿若町と言えば江戸歌舞伎の代名詞であった。
 なぜ天保十三年かといえば、即ち水野忠邦の天保の改革により、江戸市中に散らばっていた芝居小屋が、風紀上の理由で、一箇所に集められたのである。隅田川沿いの湿地帯であったところに、芝居小屋が集められてから、自然に猿若町という町名ができた。江戸歌舞伎の創始者、猿若勘三郎にちなんだ名前である。

・芝居町の変遷

 寛永元年(1624)猿若勘三郎なるものが、江戸中橋に歌舞伎芝居を創設し、同九年、日本橋禰宜町に移転し、慶安四年(1651)堺町へ再転して、中村座の基礎をさだめたのが江戸歌舞伎の濫觴(らんしょう)である。猿若勘三郎は一流の名優で、幕府御用を勤めたこともあり、明暦三年(1657)上洛して後西帝の叡覧に供したこともある。その時後西帝は勘三郎の息子に明石の名を許された。爾来猿若勘三郎は明石勘三郎の名を世襲し、四代目が隠居後中村伝九郎と称し、以後は明石姓を遠慮して、猿若と中村を交称して、七代目から中村姓にすわった。
 市村座は、二代目猿若勘三郎の弟子、市村竹之丞が葺屋町に創設したもので、市村は宇左衛門の名を世襲して、八代目から羽左衛門となった。
 森田座は、万治三年(1660)森田太郎兵衛なるものが木挽町に創設した芝居で、元禄九年(1696)に堺町に移り、四代目以降、森田勘弥の名を世襲し、爾来、河原崎座と合同したり分離したりして明治におよんだ。
 以上が江戸三座である。三座の他に、寛永十九年(1643)山村長太夫なるものが木挽町に創設した山村座というのがあったが、これは七代将軍家継のときの
江島騒動で、取り潰されて無くなった。
 この江戸三座が天保十三年に浅草に集結させられ、猿若町という町名になるのである。

・市川団十郎

 市川団十郎は歌舞伎三座の座主ではない。初代から終いまで抱え役者であった。三田村鳶魚翁に、団十郎と江戸っ子についての簡単だが考証的な評価があるので、引用してみよう。『市川団十郎というものが江戸の名物になっている。この団十郎は歌舞伎三座(もとは四座あったのですが、山村座がなくなって、中村座・市村座・森田座と、この三つが最後まであった。)の座主ではない。はじめからしまいまで抱え役者でありました。が、抱えられる身分であるに拘らず、芝居道で大変重んぜられている。ただ芝居道で貴ばれるばかりでなく、江戸の名物となり、江戸の表徴のようにもなった。というのは、彼の家の芸とする荒事、彼の得意であるツラネ-希代にまた団十郎の家では、弁舌の達者な者が多く出ております。このツラネというのは、まず悪対(あくたい)の塊りみたいなものです。啖火を切るというのは漢方医者の言葉で、咽喉へ痰が詰ってゼイゼイいう、そこへ熱を持つから痰火というのですが、咽喉へからまる痰を切って出せぱ気持がよくなる。そこで「痰火を切る」という言葉が出来た。「溜飲を下げる」などというのも同じことで、この悪対の塊りを出す。言わんと欲して言うことの出来ないことを言う。芝居を見物してそれを喜ぶ。また、(芝居を)実際見ないでも、見て喜ぶ人達の様子が自分達を浮き立たせるから、見ない手合までが騒ぐ。芝居はこの悪対というものによって、江戸ツ子に景気をつけ、人気取をする。そこに悪対趣味というものが出来て、ツラネというものが喝采される。それを例の芝居見物の階級の人が喜ぶ。そうすると、下級の江戸ツ子と自称する手合が、自分に代って言ってくれたように思って、芝居から付けられた景気で嬉しがるのであります。』

・芝居者の圧迫

 天保の改革の推進者、老中水野越前守忠邦は、その豪胆と潔癖な人間性を評価すべき面もあるが、孔孟思想に凝り固まった堅物で、風儀を乱す元凶である河原者(芝居者)には、まるで理解も同情も持たず、容赦ない取締りを行った。
 役者が舞台以外に、普通民家へ往復交際することを禁じ、芝居小屋への出入りには必ず深編笠をかぶらせ、派手な衣装を許さず、座頭(ざがしら)役者の給金は一ヵ年五百両を超えてはならず、湯治、参詣などの理由をもうけて役者が旅行してはならず、もし犯す者は、遠島や欠所に処した。芝居を浅草(猿若町)に封じ込め、着物の柄から、煙草入れの金具のことまで、法律で決めた。それらを腹心の南町奉行鳥居甲斐守(耀蔵)に取り締まらせた。
 明治の中頃までは、天保の改革を経験した古老がたくさん生き残っていて、彼等の談話記録が色々残っているが、天保の改革というものは、江戸の市民上下にとって、ことほど左様に、恐ろしかったものであるらしい。それらの談話を読むと、天保の改革が恐怖そのものであったことが、現実感を持って窺える。

参考文献:
    『鳶魚江戸叢書 第九巻』三田村鳶魚
    『江戸から東京へ 第一、二、七巻』矢田挿雲


◆野閑人@週末寝物語20

<江戸っ子気質の話 その2>

・鳥追
 辰巳芸者衆の他に、女で、際立ってイナセなものは、鳥追(とりおい)であった鳥追娘は、よく浮世絵なんかに描かれているが、着物はかなり派手な松坂木綿の縞物に、一本独鈷(いっぽんどっこ)の帯を締め、山形の編笠をかぶり、浅黄か緋かの鹿の子絞りのアゴ当てで、ふっくりしたアゴを包んだ上から、真紅の笠の紐を結び、三味線を腕に抱いて、門付けをして歩く。
 実は、鳥追というのは、正月元旦から二十日までの期間のみ『鳥追』と呼ばれるのである。普段の日は『女太夫(おんなたゆう)』と呼ばれていた。鳥追と女太夫の違いは、歌う唄が違うのと、三味線が鳥追の方がずっと賑やかになる点であった。着物も鳥追の方が大分派手になるらしい。また、女太夫の時は、編笠をかぶらず、妻折笠(つまおれがさ)をかぶる。鳥追の時も女太夫の時も、着物は、絹物は決して着ず、かならず木綿であった。
 鳥追は『鳥追娘』と呼ばれるならいであった。それほど若く美しい、色白の女が多かった。連れ弾きのためと、自衛のために、鳥追はかならず二人で流し歩いた。似た年頃の娘が肩を並べてくることもあり、姉と妹の場合もあり、本当とは思えぬような若い母親と娘のこともあった。
 彼等が最も重んじたのは姿であった。彼等は下腹から乳の下まで、白布でキリッと巻いて、その上へスラリと帯を締めた。全身の肉を締めるためであった。
 立った姿もかがんだ姿も、いうにいわれぬ味があったそうだ。そのいうにいわれぬ味をイナセといった。浮世絵に描かれた鳥追を見ると、ことごとく美人である。すべての鳥追は、絵に描けばかならず、絶世の美人であった。
 江戸っ子の間では『女太夫に銭を投げてやるのはかわいそうだ』という心優しい黙契があった。鳥追や女太夫にやる銭は、手から手へ渡すものとなっていた。万一、思いやりのないデクノボーがいて、銭を地上に投げてやった日には、腹を巻いている鳥追は、前向きにかがむことが出来ないから、心持横になり、手甲をはめた手を伸ばして、地上の銭をすくい上げねばならなかった。ただし、江戸っ子連中、銭を渡す時、実は、彼女等の手にわざと触れることを楽しみにしていたのだ。

・勇み肌(イサミ)
 イサミとなると、イナセよりもう一段、品が下がるらしい。
『かつお、かつお、と呼ぶ声は、勇み肌なる中っ腹』という唄にあるネジリ手拭の向こう鉢巻や、『なんだあ?ベランメエ!』の巻舌野郎や、朝湯で都々逸を唸ることや、頭で縄のれんを掻き分けることや、火事場で纏を振ることや、盆ゴザの上へアグラをかいて、刺青だらけの肌を出すことなどは、多くはイサミの系統に分類すべきものであるらしい。

・野暮
 粋でもイナセでもイサミでもないもの。つまり『通』でない気質。それは何かというと、即ち、それは『野暮(ヤボ)』というものであって、野暮は、アカニシ貝(ケチの例え)と共に、江戸っ子のもっとも嫌悪し、軽蔑するところであるらしい。もしそれ、『野暮の骨頂』というのにいたっては、箸にも棒にもかからないものであるらしい。
 江戸の花柳界で、『なんて野暮な人だろう』、『なんてわからず屋だろう』と、言われれば、その世界に出没する人間の致命傷であった。江戸の女の命は、野暮でないことと、わからず屋でないことであった。

参考文献:
    『江戸から東京へ 第七巻』 矢田挿雲
    『江戸物売図聚』      三谷一馬


◆野閑人@週末寝物語19

ようよ温うなってきたちや。先週末の冷やかったこと。
もはや四月も終わりじゃねえ。

<江戸っ子気質の話 その1>

 江戸っ子気質を語るのに、必ず出てくる言葉は『粋(スイ又はイキ)』と『イナセ』であろう。粋の発生は、やはり吉原であるらしい。人は遊ぶ時に、気質が丸出しになるものだろう。そのなかの洒落た、或いは格好のよいと思われる気質が周囲に拒否されず、多くの人に受容されれば、その地域の流行となり、やがて時とともに住民たちの気質として染み込んでゆくものだろう。
 矢田挿雲翁によると、江戸っ子気質を、お上品な方から順序を立てれば、一番上が『粋』でその次が『イナセ』で、その次が『イサミ』であるということらしい。そして『イナセ』と『キャン』は、ほとんど同列に考えるべきものらしい。キャンは『お侠(おきゃん)』で、女性専用用語である。キャンの代表が、前回書いた辰巳芸妓衆である。イサミは『勇み肌』のことである。
 そしてこれらを貫いて『通(ツウ)』というものが強く要求されるらしい。なかなか難しいのである。

・粋
 しからば上品というのは、どんなもんかと言えば、金のあること、ないしは、金はなくとも金のある者に特有の余裕を持っていることであるそうだ。
 通な旗本が貧乏しても、上品を失わぬ場合に、その気質は粋であるが、その粋から品を失えば、イナセになるそうだ。旗本に限らず、職人でも仕事師でも、金のあるなしで、その肌合いが粋にもイナセにもなるそうだ。イサミとなれば、イナセよりもう一段下になるらしい。
 『粋』は新吉原で長い間、大名や高級旗本や蔵前の札差のような大商人にはぐくまれて発達してきたものである。

・イナセとキャンとイサミ
 イナセとキャンは、後には辰巳(深川洲崎)の専売特許のようになったが、この気質も、元はやはり新吉原に発生したものらしい。
 安政二年(1855)の大地震の頃、新吉原の廓内を、毎晩一人の新内語りが流して歩いた。新内の流しは今に始まったことではないが、この流しはとりわけ美音で、『去(い)なせともなきその心、帰らしゃんせと惚れた情』と玉を転がすような美声で唄ってきた。籠の鳥の遊女たちは、その哀れな文句と美声とに魅せられ、毎晩その刻限になると、『イナセはまだきいせんか。そらイナセがきいした。』と大騒ぎをした。それからは粋な文句や形や気質をイナセの新語で賛嘆するようになった。それ以来、『粋だねえ』といったところを、『イナセだねえ』ということになった。
 程なくして、粋の系統のものは新吉原に残り、イナセとかキャンとかイサミの系統のものは、洲崎へ移り、江戸気質の二大分化が行われたという。

・イナセな姿
 イナセな姿の例を、書物から引用しよう。

 『坐りもできないような江戸仕立のパツチを、ゴムでもはめたように、キッチリと細い股にはくのは、江戸の仕事師か職人にかぎる。彼等はかならず豆しぼりの手拭を、三尺帯にはさむか手に握るかして、坐るにはかならず両方のカカトを重ね、物をいうには舌を巻き、その声はかならずボンノクボから出す。木遣音頭と、喧嘩と、梯子乗りとは、江戸の仕事師の、最も得意とするところだった。その意気と姿とを一言にしてつくせば、イナセである。粋といっていえぬことはないが、粋という言葉はこの場合過不足がある。』(矢田挿雲)

 『仕事師についで、イナセなものは何だといえば、コハダの鮨売りが代表的だった。彼等の風俗ももとを正せば、吉原で養われたものだが、次第に粋の領分から脱出して、イナセ系統へ寝返ってきた。彼等はまず新しい手拭を吉原かぶりにし、白唐桟(しろとうざん)の桟留縞(さんとめじま)か、または松坂木綿の細かい縞物を尻端折りにし、その上へ、それよりもやや荒い縞物に、黒八丈の襟のかかった半纏を着、帯は小倉の幅の狭いのか、平グケをしめ、木綿の股引(ももひき)をお約束通り、肉へ食入るように堅くはき、白足袋に麻裏(草履)というこしらえ・・・・。
 (中略)。毎日午後一時から四時ごろの間を、すてきな美音で、
「すしや、コハダのすウし」と銀線を引きのばしたように、長くひいて触れまわる。万事が綺麗で気がきいていて、おまけに不思議にいい声の、いい男が多い。 (中略)。新内の流しを歓迎した女どもが、この鮨売りのイナセな姿や声に、身もだえしたことは非常なもの。』(矢田挿雲)

 『手拭を吉原かぶりにして、粋な物ぎれいなこしらへの売子が「すしや、こはだのすーし」といってやって来る。問屋が売子を出す仕出し鮨です。この当時は、まぐろの鮨もありましたが、代表的な鮨といえば、こはだの鮨をさしました。値段も安く一個四文でした。』(三谷一馬)

参考文献:
    『江戸から東京へ 第七巻』 矢田挿雲
    『江戸物売図聚』      三谷一馬


◆野閑人@週末寝物語18

<辰巳の里 その二>

・羽織芸妓

 文化文政期(1804~)頃に、辰巳の名妓と言われたのは、花車屋のおしゅん、おりん、沢瀉屋(おもだかや)のお花、升屋のお蝶、住吉屋のおかん、などであった。いずれも深川洲崎の名花として伝わっている。
 彼女たちは皆、辰巳張りの気質と口舌を持ち、洲崎の荒い潮風に風邪を引かぬ用意として、羽織を着た。それが珍しさにハオリ芸妓という名称が起こり、後には略して、ハオリハオリと呼ばれるようになった。ハオリと言えば、辰巳芸妓の代名詞になった。当時は、羽織は男が着るもので女のものではなかった。女の羽織は非常に突飛だったのである。
 岡場所の女は料理屋に抱えておくものと、子供屋(置屋)に抱えておくものと二通りあった。前者を『伏せ玉』といい、後者を『呼出し』といった。化政期以後は、伏せ玉を置く料理屋が大いに増え、大栄楼、五明楼、百歩楼などの妓楼が洲崎の海に面して建てられた。
 妓楼を『料理屋』と称したのは、岡場所が非公許の遊里だったからだ。なお蛇足でいうと、吉原の遊女と違って、岡場所の芸妓(芸者)の源氏名を、駒吉、仇吉、米八、などと男名で呼ぶのも、当局の目を逃れるため、名目上、男の雇人を装ったためである。もちろん当局も馬鹿ではないから、そんなことは百も承知で、実際には黙認状態であったのである。
 呼出しの女の価は、十二文と二朱(八分の一両)の二種類であった。二朱の女の呼べる家と、呼べない家があったらしい。

・米蝶の辰巳張り

 宝暦年間(1751~64)に、辰巳芸妓で米蝶(ヨネチョウ又はコメチョウ)という名妓がいた。本名はお蝶で、顔は美しかったが、性質は男のようで、三味線などは空っ下手であった。それにもかかわらず、気象がさっぱりしていて、昼夜の別なく、口がかかってきた。何日も前から約束しておかないと、米蝶を呼ぶことは出来ないほどの全盛であった。その頃、辰巳でお蝶の他に名高い女は、弁天おかん、木綿屋おきりなどだった。
 ある時、お蝶、おかん、おきり、と三人、肩を並べて八幡町を散歩しながら仲町の小鳥屋の前まで来た。たくさんの籠の鳥は餌をついばんでは、さえずっていた。三人は足をとどめて、しばし余念もなく、小鳥を眺めていた。道行く人も足をとどめて、これは小鳥を見ずに三人の美しい女を眺めていた。鳥屋の主人すっかり上機嫌になり、奥から銀製の鳥籠を持出してきて、米蝶の前に据え、『この鳥籠は、さる高貴な方からお預かりしたものです。中の鳥は朝鮮のシマヒヨドリといって、三十両もする貴重な鳥です』と自慢した。
 大尽連の機嫌をとることに飽きている米蝶は『さる高貴なお方』だとか、『鳥の価が三十両だ』とかいう言葉が、ぐっと癪にさわった。
 強い笑顔をつくり、『本当に見事な鳥籠ですネ。ですけれどもこの小鳥の身になったら、金銀の籠に入れられるより、広い野原に放された方が、どんなに嬉しいでしょう。なまじこんな美しい小鳥と生まれなければ、銀の籠に入れられることもなかったんですネ。三十両は高いようなものの、小鳥の命に比べれば安いものですネ。小鳥屋さん、どうかこの鳥を私に売って下さいな。』と言うかと思うと、さっと籠の戸をひらいた。シマヒヨドリは籠を出て空高く舞い上がった。鳥屋の亭主、腰も抜かさんばかりに驚いたが、店の前の群集は、手を打って喜んだ。三十両(今の金で二百五十万円ぐらいか)の金が即日米蝶のもとから、鳥屋へ届けられた。その米蝶の辰巳張りの気象が、またひとしきり江戸花柳界の評判になったと言う。

・天保の改革

 ハオリの跋扈は、新吉原の営業をおびやかすこと少なくないので、吉原からはたびたび当局者へ岡場所の取締りを誓願した。もともと当局の黙認の上に成り立っている稼業だから、不安定なることおびただしい。吉原からの請願があれば当局者も手を入れないわけには行かず、洲崎も抗弁するわけには行かない。たびたび手入れはあったが、ついに、天保十三年三月、水野忠邦による天保の改革の一環として岡場所禁止令が出された。その時を限りとして辰巳名物の色町は消滅した。そのずっと後に、深川に芸者が復活するが、それはもはや辰巳芸者とは似て非なるものであった。
 辰巳を追われた女たちは、両国の向こうへ渡って、柳橋に赤い燈をともしはじめた。辰巳仕込みのイナセとキャンで柳橋は日に増し繁盛するようになった。辰巳気質は柳橋芸者に引き継がれたのである。

参考文献:
    「江戸から東京へ 第七巻」 矢田挿雲
    「鳶魚江戸叢書 第十三巻」 三田村鳶魚


◆野閑人@週末寝物語17

今週は火曜日から一人身じゃったきに、夜、わりと時間が取れた。
浮世はすっかり春になりまいたのうし。

<辰巳の里 その一>

・深川八幡

 新吉原は江戸で唯一の公許の遊郭であったが、他に非公許の『岡場所』が江戸のあちこちにあった。山谷堀、洲崎(深川)、根津、湯島などにあった。中でも洲崎は、広大な深川八幡(富岡八幡宮)の一の鳥居をくぐった境内にも、鳥居の外側にも色町が広がり、俗に深川七場所と呼ばれる一大色町を形成していた。
 承応二年(1653)頃の深川八幡は今よりはるかに広大で、一の鳥居は今の門前仲町の辺りにあった。承応二年以後、門前町、門前仲町、門前東仲町がひらかれ、延享二年(1745)門前山本町などがひらかれ、それぞれの町名によって呼ばれるようになっても、八幡宮門前を押しなべて洲崎と称することはすたらなかった。
 これらの町々ほとんどすべてが色町で、深川七場所と呼ばれる岡場所であった。七場所は俗に、土橋、櫓下、裾継、門前仲町、アヒル、石場、新地と江戸っ子には呼ばれていた。深川洲崎は日本橋の辰巳(東南)の方向にあたり、浅草寺の北の新吉原を『北里』『北郭』と呼ぶのに対し、洲崎の色町を『辰巳』と呼ぶことになった。
 深川は今でもそうだが、縦横に堀(運河)が走り舟運が盛んであった。夜になると赤い燈が堀の水に落ちて、弦歌の声が水の底から湧くかと思われた。洲崎の名の通り、目の前はすぐに江戸湾である。
 辰巳の里は延享(1744~)頃から盛んになってきたものだろうと思う。それが天保十三年に突然消えてしまうのである。このことには後で触れよう。まずは『辰巳気質』『辰巳張り』と呼ばれる典型的な江戸花柳界気質について書こう。『辰巳気質』は辰巳芸妓に代表されると思ってよい。

・辰巳芸妓

 洲崎の岡場所は、最初は北方から物資を江戸に運んでくる船頭衆を常花客(じょうとくい)として発展した。
 房総、常磐、仙台、松前辺の船頭衆は、もちろんお上品ではない。板子一枚で地獄と娑婆をしきり、金華山沖で鯨のシブキを浴びてくる船頭衆をこなすには、相当の意地と、張りと、押しと、腕とが必要であった。そのかわり、船乗りに特有なざっくばらんな気質が辰巳女に感染した。辰巳最盛期の文化文政頃(1804~)になると、回漕業とともに発達した深川の米商、材木商、魚商などの、豪奢な生活をする商人も常花客となり、辰巳女の気質は、その影響を受けて異常の洗練を遂げた。これら深川独特の寛闊大腹な商人気質から、都会的、俳諧的感化をこうむったのである。
 化政期には、辰巳は江戸の花柳気質の粋をもって、任じていた。吉原は自ら『なか』と称する誇りを持ち、辰巳は、芸妓の意気、女郎の達引、色の諸分けを心得ているのは広いお江戸に辰巳のほかにはないと、自負していた。あたかもそれは、江戸っ子が、蔵前っ子、河岸っ子、神田っ子、芝っ子というふうに分かれていて、それらの部分的江戸っ子が、それぞれ肌合いを異にするごとく、吉原と辰巳はそれぞれ気前を異にした。

・辰巳張り

 吉原気質も辰巳気質も、ともに江戸気質の半面であるくせに、江戸の江戸たり、イナセのイナセたり、侠(キャン)の侠たるところは、ひたすら辰巳によって伝わったものと思われている。江戸の辰巳に住む猫は、キャンキャンたる鳴き声も気風も、荒々しく、騒々しい。しからば辰巳の女は、ただ荒々しいのかと言えば決してそうでもない。都会人らしい複雑さとデリカシーを包み、情にはもろく、涙っぱやく、『よし、分かった』といえば、本当によく分かったのであり、『あたしが引き受けた』といえば、どこまでも引受けたのであり、借金して人を助け、一言の諾否に命をかけ、商売は職業なのか、道楽なのか自分で分からず、人にも分からぬところに、辰巳独特の味があった。

参考文献:
    「江戸から東京へ 第七巻」 矢田挿雲
    「鳶魚江戸叢書 第十三巻」 三田村鳶魚 


◆野閑人@週末寝物語16

きのうけふと良く晴れた。暖かい。コートもチョッキも要らなくなった。
けふは帰りに、銀座教文館というところへ行ってきて、
広重の『名所江戸百景展』といふのを見てきた。
本物の浮世絵版画というものは良いものだ。

<天婦羅の話>

 江戸の四大ご馳走のうち、蕎麦、鮨、鰻のことは書いたので、
今日は残る一つ、天婦羅のことを書こう。これも主として、
三田村鳶魚翁『鳶魚江戸叢書第五巻』によって書く。

・天婦羅前史

 天婦羅は天麩羅とも書いて、その語源にいくつかの説があるが、いずれも眉唾ものなのでここでは略す。
 天婦羅がどこから伝わったものか判然としないが、慶長年間(1596~)には京都で非常に流行っていたらしい。もっとも庶民の口には入らぬ高級料理であった。当時の天婦羅油は胡麻油か柏(かや)油を使っていて、この頃の天婦羅は衣をつけず魚肉などを直接、油でコチコチに揚げたものであった。
 徳川家康が、天婦羅の食傷が原因で死んだことは有名であるが(元和二年=1616年)、当時はこういう人しか天婦羅は食べられなかった。家康の食傷死以降、天婦羅はあまり流行らなくなった。それが再び現れた時は一般民衆の食物になっていた。

・黄檗料理

一体、日本の揚げ物については、寛文(1661~)という年号がひどく利いている。それはその頃、黄檗宗の寺院がたくさん出来て、黄檗料理なるものが一般に浸透した。黄檗料理の中には随分いろいろな揚げ物がある。一般の揚げ物を考えると、黄檗坊主の影響を無視するわけにはいかないようである。

・江戸の天婦羅

 天婦羅が程経て江戸に来た時は、辻売り(屋台)の食物になっている。つまり往来の立食いである。
 江戸で食物の屋台店を往来に出すようになったのは、天明五年(1785)からのことで、その時には天婦羅ばかりじゃなく、いろいろなものがそうなった。これは前年・前々年の天明の大飢饉の影響で慢性的な米不足で米価が高騰しており、代用食的な辻売りの食物が喜ばれたからである。
 寛政の末(1800年頃)、日本橋の屋台の吉兵衛という者が、いい天婦羅をこしらえて大変売れた。これは良い天婦羅の種を使ったということらしい。
 江戸の天婦羅屋は幕末になるまで辻売りの立食いばっかりで、ちゃんと座る場所を設けた天婦羅屋が出来たのは、文久頃(1861~)からである。また衣をつけたふっくらとした天婦羅が出来たのもこの頃かららしい。
 文久元年に江戸の庶民の食物を集めた『江戸久居計(えどくいけ)』と言う本に、『田所町広野屋』という店の図が載っている。屋台店の立食いだが、横の方にはちょっと入って腰かけて食えるようにもなっている。慶応頃(1865~)以後には、庭もあり、畳に座って食える料理屋然とした天婦羅屋も出てきた。評判のものとしては、下谷御成道(おなりみち)の『梅月』という店があった。梅月のおかみが芸者上がりか女郎上がりかで、大変別嬪だったというので評判を取った。

・天婦羅の種と油

 文久頃の天婦羅の種(ネタ)としては、当時の風俗を描いた大津絵に、蛤むきみ、貝柱、あなご、こはだ、するめいか、海老、等が書かれている。この頃、天婦羅茶漬というような料理もでてきた。またこの時分から、胡麻油、柏(かや)油の他に、南蛮油というのが使われている。南蛮油というのは何だというと、これはオリーブ油のことである。江戸も文久頃になると天婦羅油も大分ハイカラになって、舶来オリーブ油なんぞも使われたと見える。

参考文献:
      『鳶魚江戸叢書第五巻』 三田村鳶魚


◆野閑人@週末寝物語15

<江戸の裏店(うらだな=裏長屋)暮らし その4>

・引越し魔・北斎
 画狂人・葛飾北斎は一生江戸の裏店で暮らした生粋の江戸っ子である。本所割下水(わりげすい)に生まれ本所に育ち、後年は浅草に住み、嘉永二年(1849)九十歳で死ぬまで、裏店に住み、合計九十三回の引越しをやった。
 北斎は二度師匠に付き二度とも破門された。以後は自身で画業に研鑽し、膨大な量の作品を後世に残した。
 根っからの江戸っ子で、金のために絵を描くなどというのは大嫌いだった。諸方から集まる画料は封も切らず棚へ放り上げ、見向きもせず、そして金がないないと言っていた。
 女房運に恵まれず五十三歳で独り者になると、以後死ぬまで出戻り娘の阿栄(おえい)と二人で長屋暮らしをした。阿栄には父譲りの画才があり、絵を描いたが、応為(おうい)という雅号まで持ち、美人画に優れていたという。しかし親父譲りで、家計のやりくりはまったく駄目であった。やりくりが駄目で絵がうまいから無論北斎の気に入った。
 北斎の絵が極端なリアリズムであった以上に、彼の生活もまた、極端な自由とありのままのぶちまけであった。当時、絵本類の挿絵は一丁(二頁)描けば二朱が相場であったが、北斎の技量は卓越しており、出版業者も彼に限り倍額の一分(1/4両)を支払ったから、衣食には差し支えないはずだが、奇妙にいつも貧乏していた。
 北斎は大の寒がりで、毎年九月から四月まで炬燵にかじりつき、炬燵の上へ紙をのべ、昼夜となく絵筆を握り続けた。決して家の中を掃除せず、腹が空けば、近所の煮売屋(にうりや)から竹の皮包みの煮しめを取って、父娘が思い思いに食事を済ませ、眠くなれば時間にかかわらず寝て、目が覚めれば、顔も洗わず絵筆を握る。夏は、北斎は飯櫃(めしびつ)の上で、阿栄はボロ畳の上で描いた。二人とも、長いこと机が買えなかったのである。壁に「おじぎ無用」「土産物無用」と大きく張り出し、客が来ても時候の挨拶などはしないことにしていた。
 北斎は掃除が大嫌いで、阿栄も父の意に逆らってまで掃除するような分からず屋ではない。狭い部屋には埃と竹の皮が累積し、どうにもならなくなったら、さっさと転居した。軒にかける名札と、鍋一つと、茶碗三つと大八車に五台分の和漢洋の粉本(ふんぽん)が全財産で、これだけ持って引越しばかりしていた。引越し先が気に食わず、一日に三回引越したこともあった。
 北斎は決して引きこもりの変人奇人ではなく、気が向けば、他人とも気軽に付き合うこともした。要するに極端な負けず嫌いの江戸っ子であった。
 ある時、津軽侯の使者が絵の依頼に来たが、使者の命令的な口調が気に食わず、返事もしない。使者があわてて五両の小判を渡そうとすると北斎はいっそう腹を立てて、使者を追い返してしまった。後日、使者はもう一度来たが見向きもしない。それから半年ぐらいしてから北斎は、ブラリと津軽候の屋敷をを訪い、上機嫌で群馬野遊の図を描いた。その屏風一双は今も津軽家に伝わっている。
 ある時、三代目菊五郎の梅幸が駕籠でやって来て、幽霊の絵を依頼した。梅幸の倣岸な態度が、初めから北斎の癪に障ったから、梅幸を無視して取り合わなかった。梅幸は駕籠の中から厚い座布団を取り寄せて、埃と竹の皮の上に敷こうとした。北斎は『こらっ』と大喝して梅幸を追い出した。名人梅幸は、さすがに反省して、その後は相当の礼儀をとるようにした。新しい芝居が掛かった時は丁寧に招待した。北斎は一張羅の蚊帳を二朱で売って猿若町(芝居町)へ出かけ、芝居が済むと菊五郎へ全部祝儀に渡して、その夏は蚊に喰われ通した。友人が見かねて、蚊帳を買ってくれた。
 北斎は、死後、日本人には忘れられかけた存在になっていたが、明治になってから、たちまち西洋人に認められ、どんどん海外に持ち出され、西洋で精緻な翻刻がなされ、大部の研究書となって、日本に逆流して日本人の目を覚ました。北斎の浮世絵がフランス後期印象派に甚大な影響を与えたのは有名な話である。
 北斎は『人魂(ひとだま)で 行く気散じや 夏の原』というのんきな辞世を残して、嘉永二年(1849)四月十八日、九十歳を一期として、阿栄に看取られて、死んだ。


参考文献:
      「江戸から東京へ第三巻」 矢田挿雲

◆野閑人@週末寝物語14

<江戸の裏店(うらだな=裏長屋)暮らし その3>

・長屋の花見

 九尺二間に住んでいたのは、いわゆる熊さん八っつあんなのである。古典落語の名作『長屋の花見』に、特にオンボロ長屋(戸無し長屋)の住民たちが登場するが、紙クズ拾い、(三味線の胴に張る)猫の皮むき、大工崩れ、棒手振り、とかいう零細な生業(なりわい)を営む連中である。この連中、自分らは貧乏人だとしっかり自覚していて、かつ、だから自分らは惨めだとは決して思っていない。浮世の義理も面目も流行もちゃんと知っている江戸っ子連中である。これが平和だった江戸時代の良さのひとつである。
 話は、この貧乏長屋の人情大家が、桜の季節に、店子連中を上野のお山へ花見に連れてってやろうという筋書きだが、その日の朝、大家が長屋の月番(店子が一月交代で朝晩の木戸の開閉をする役)を呼び、わけも言わず皆を集めてくれと言う。月番は長屋の全員、金、留、辰、寅、六、亀、竹、勝、を自分の家に呼び集めて、大家に皆揃って来るように呼ばれたと伝える。さあ、連中、まともに店賃(たなちん-家賃)を払っている奴は一人もいない。いよいよ店立て(たなだて-追い出され)かと不安になる・・・。『長屋の花見』をインターネットで見つけたので、そのさわり部分をを無断借用して下記に転載する。これは考証にはならぬが、幕末頃の裏店の住民の雰囲気を少しは味わえるであろうと思う。

-------------------------
        (前略)
月番:いゃぁ、実は、みんなを呼んだのは他でも
   ねぇが、大家がね、月番のおれを呼んで、
   みんな顔を揃えてきてくれ、と、こうだ。
金 :ふーん、何の用だろうねぇ。
月番:なんだか分からねぇが、おれの考ぇじゃぁ、
   ひょっとしたら店賃の催促じゃぁねぇか、
   と思うんだ。
金 :たなちん?大家が店賃をどうしよう
   てぇんだ?
月番:どうしようったって、決まってらぁな、
   みんなから店賃を取ろうってぇんだ。
金 :店賃を? 大家が? そりゃぁ、図々しい
   話だ。
月番:図々しいってぇことたぁねぇ。しかし、
   なんだなぁ、大家が催促をするてぇから
   にゃぁ、みんな相当に溜めてんじゃぁねぇか
   と思うんだが、どうだい? 留さんちなんか。
留 :いやぁ、面目ねぇ。
月番:面目ねぇ、なんてぇとこを見ると、あんまり
   持ってってねぇな。
留 :いや、それがね、ひとつやってあるだけに、
   面目ねぇ。
月番:そんなら何も面目ねぇなんてぇこたぁねぇ。
   店賃なんてモノは毎月ひとつ持ってきゃぁ
   それでいいもんだ。
留 :おめぇ、そりゃぁ、毎月ひとつ持ってって
   りゃぁ、誰も面目ながりゃぁしねぇやな。
月番:まぁ、そう云やぁそうだ。じゃぁ、半年前に
   ひとつくれぇか?
留 :半年前なら大威張りだ。
月番:一年前か?
留 :一年前なら面目なくねぇや。
月番:三年くれぇか?
留 :三年前なら大家の方から礼にくらぁ。
月番:来やしないよ。じゃぁ、おめぇはいってぇ、
   いつ持ってったんだい?
留 :まぁ、月日の経つのは早ぇって云うが...、
   あれはおれがこの長屋に越して来た月の
   こったから、指折り数えて十八年くれぇにゃぁ
   なるかな?
月番:十八年? 仇討ちじゃぁないんだよ! ...
   金ちゃんちはどうなってる?
金 :なにが?
月番:いや、店賃は?
金 :あれ、店賃..そいつぁ、どうだっていいや。
月番:どうだって、って...いや、店賃を払ってる
   かどうか、聞いてんだけどね。
金 :だから、おめぇの気の済むように、どっちでも
   いいようにしといてくれってぇんだよ。
   月番に任せるから。
月番:そんなもん、任されて堪るかよ! ...
   辰っちゃんは?お前さんとこはどうだい?
辰 :まことに、すまねぇ。
月番:いや、謝られてもしょうがねぇけど、店賃、
   どうなってる?
辰 :その、店賃、ってぇのは、何だ?
月番:おいおい、店賃、知らねぇやつがいたよ!
   しょうがねぇなぁ..寅さんとこはどうだい?
寅 :何が?
月番:何が、じゃないよ。店賃だよ。
寅 :店賃だぁ?そんなもん、未だにもらったことが
   ねぇぞ!
月番:あれ、この野郎、店賃、もらう気でいやがる。
   図々しいにもほどがあらぁ..店賃てぇものは、
   おめえが大家に持ってく金じゃぁねぇか。
寅 :おれから? へぇ、そいつぁ、初耳だ。
月番:無茶云うねぇ...六さんは? おめぇさん、
   なかなかきちんとしたとこがあるから、店賃は
   持ってってるだろう?
六 :いや、そう云われるてぇと恥ずかしいが...
   確かに持ってってる。
月番:えらい!これだよ、感心だ。いつ持ってった?
六 :そうだなぁ...おれが、おふくろの背中に
   おぶさって...。
月番:あきれたねぇ..そりゃぁ何十年前の話しだ?
   古過ぎらぁ...亀さんは?
亀 :店賃については、涙ぐましい物語が...
   まずは、ひととおり聞いておくんなせぇ...
月番:芝居がかってきたねぇ..まぁ、語ってみな。
亀 :じつは、五年以前に亡くなった親父の遺言で
   なぁ..臨終の枕元におれを呼んで、苦しい
   息の下でこう云ったんだ。『これ、せがれや
   ..おれも長ぇあいだ、この長屋に住んで
   いたが、いまだに店賃てぇものを払ったことが
   ねぇ。どうぞお前の代になっても、店賃を払う
   ような、そんなだいそれた了見だけは起こして
   くれるなよ...』と、涙ながらにおれの手を
   握った...まもなく息は絶えにけり...
   南無阿弥陀仏...。
月番:いい加減にしろい!どこの世界にそんな遺言
   する親父がいるんでぇ! 竹さんとこは?
竹 :店賃についちゃぁ、涙ぐましい物語が...
   まずはひととおり...。
月番:もういいよ!どうせ親父の遺言だてぇんだろ!
竹 :あたり!
月番:なに云ってやがんでぇ!どうしようもねぇな。
   勝つぁん、お宅は?
勝 :実は店賃についちゃぁ、浮世の義理はつら~い
   てぇ話しがござんしてねぇ...
   まずはひととおり...。
月番:まただよ...浮世の義理かのこぎりか知ら
   ねぇが、手っ取り早くたのむよ!
勝 :右隣のうちの話じゃぁ、払ったのは十八年前、
   左隣のうちの話しじゃぁ、店賃を知らない。
   向こう三軒両隣り、ご近所一帯が店賃を出して
   ねぇってぇのに、うち一軒が払っては、
   近所付き合いの手前、面目が立たねぇ。
   店賃は払いてぇ。払いてぇ気持ちはやまやま
   だけど、それは自分の胸にグッと堪えて、
   浮世の義理との板挟み、まことに辛い...。
月番:なにを下らねぇことを云ってやがんでぇ!..。
   こりゃぁ、どうにもしょうがねぇなぁ..。
       (後略)


◆野閑人@週末寝物語13

<江戸の裏店(うらだな=裏長屋)暮らし その2>

・裏店の住民
 裏店に住むのは町人階級であるが、江戸の町人地に住む人たちは、地主、地借家持(じしゃくいえもち)、店子(たなこ)の三階層に分かれていた。地主は表通りに土地を持ち、家や店を構えている大商人や御用達職人の棟梁といった旦那や親方衆である。地借家持は表通りに土地を借りて、家や店を構えた中堅の商人や職人層である。店子は土地も家も持たない借家人で、裏通りの住まい、特に主として長屋(裏店)の住人である。
 店子の身分や職業はさまざまで、職人、行商人(棒手振り・他)、日雇取り(日雇い)、浪人、下級の芸人、商店の世帯持ち使用人、等々である。
 式亭三馬の『浮世床』に、長屋の木戸口を描いた有名な挿絵があるが、それに長屋の住人が、てんでに掲げた看板や張り紙が見られる。祈祷師、人相見、常磐津師匠、山伏、縁談仲介、尺八師匠、灸すえ所、医師、手習い師匠、などである。

・大家(おおや)
 前回にも登場した大家(おおや)というのは、その呼名からして長屋の所有者だと思われがちだが、実は、土地・家屋の所有者である地主から長屋の管理を委託された使用人である。『家主』『家守』とも呼ばれた。
 大家は長屋の管理のほかに、店子と町奉行の間に入って、出産、死亡、婚礼などの届出の他、行政の末端の雑多な業務を行っていた。大家の住まいは自分の管理する長屋の木戸の横にあり、日常、店子の生活と接することが多く、自然、互いに情が移り、『大家といえば親も同然、店子といえば子も同然』というセリフにあるように、店子からは、うるさがられながらも頼りにされる人情大家が多かったらしい。
 幕末、江戸の大家の数は約二万人と推定されている。大家は自分の管理する長屋の店子を世話することで、江戸の治安維持の片棒を大きく担いでいた。当時の警察力である南北両奉行所の与力・同心は合計しても240人しかいなかった。実際の治安維持活動を行う定町廻(じょうまちまわり)同心、臨時廻同心、隠密廻同心にいたると全部で24名しかいなかった。これで何とか江戸の治安維持ができたのは大家の力が与って大きかったのである。

・嬶ァ天下
 幕末以前、特に江戸封建制において、男尊女卑の風潮がはなはだしかったという認識を持っている人が多いかもしれないが、これはひどい認識違いであると言わざるを得ないのである。
 日本史を通じて、女だけが特に虐げられていたという時代は無かった、と筆者は考える。古来、貴賎にかかわらず、家庭の実生活と地域社会において、日本の女は大変強かった。
 江戸時代は、女房の呼称は種々あって、御息所(みやすどころ)、御台所(みだいどころ)、御簾中(ごれんちゅう)というような貴いところはさておいて、大名以下幕府与力衆までは『奥様』で通用した(もちろん他の呼名もある)。その下、幕府同心以下町民までは『奥様』とは呼ばない。御新造、おかみさん、嬶ァ(かかあ)、山の神、下タ歯、化け臍(べそ)、等、種々雑多である。
 三田村鳶魚翁によると、文化文政期(1804~1830)に武陽隠士という人が著した『世事見聞録(せじけんもんろく)』という本に長屋の女房どものことが書いてある。著者は武士で、やや辛らつな書き方をしているが、多数はこうであったろうと思われるのである。読みやすい文語体なので、送り仮名等を多少訂正して、そのまま
引用してみる。
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今軽き裏店のもの、其の日稼ぎのものどもの体を見るに、親は辛き渡世を送るに、娘は髪化粧よき衣類を着て、遊芸又は男狂ひをなし、また夫は未明より草履草鞋にて棒手振りなどの家業に出るに、妻は夫の留守を幸に、近所合壁の女房同志寄り集まり、已が夫を不甲斐性ものに申しなし、互ひに身の蕩楽(どうらく)なる事を話し合、又、紋かるためくりなどいふ小博打いたし、或は若き男を相手に酒を給べ、或は芝居見物、其外遊山・物参り等に同道いたし、雑司ケ谷、堀の内、目黒、亀井戸、王子、深川、隅田川・梅若などへ参り、又この道筋、近来、料理茶屋、水茶屋の類、沢山に出来たる故、右等の所へ立入り、又は二階などへ上がり、金銭を費してゆるゆる休息し、又晩に及んで、夫の帰りし時、終日の労をも厭(いと)ひ遣(やら)ず、かえって水を汲ませ、煮焚(にたき)を致させ、夫をたぶらかし、すかして使ふを手柄とし、女房は主人の如く、夫は下人の如くなり、たまさか密夫(間男)などのなきは、その貞実を恩にきせて、それをたかぶり、是又、兎にも角にも気随我儘(きずいわがまま)をなすなり。
-------------------------
 もちろん例外も多かろうが、大勢これで間違いなかろうと筆者は思うのである。 

参考文献:
     「江戸時代・人づくり風土記」 (社)農山漁村文化協会
     「江戸の二十四時間」 林美一著
     「鳶魚江戸叢書第二巻」三田村鳶魚


◆野閑人@週末寝物語12 (2004.03.26)

<江戸の裏店(うらだな=裏長屋)暮らし その1>

・江戸時代の人口
 江戸時代末期の江戸の人口は130万人から140万人に達していたと推定されている。当時世界一の巨大都市である。江戸市内と呼ばれる地域の広さは江戸初期に比べれば幕末には数倍の大きさに広がっているが、幕府により厳密に武家地、寺社地、町人地に分割されていて、例えば町人は武家地に家は作れなかった。
 幕末で言えば、市街地の70%を占める武家地の人口が65万人、15%の寺社地に5万人、残り15%の町人地に60万人が住んでいた。町人地の人口密度は約67000人/平方キロで武家地の4倍という過密ぶりであった。昭和60年の統計によると、一番過密な東京豊島区の人口密度が21403人/平方キロなので、更にその3倍以上の過密ぶりである。
 言うまでもなく、江戸の名物、長屋は、以上の理由により、町民たちができるだけ安い住居費で大勢住めるように開発された住居形式である。
 ここで筆者の勝手な感想を少し言うと、現代人が東京の長屋(賃貸マンション、アパート)に住むのにあまり抵抗感を持たないのは、東京の人口過密がその最大の理由ではあるが、それ以上に、東京では江戸時代から集合住宅に住むのに抵抗感が無い伝統的な風土性があると思われるのである。

・長屋の種類と構造
 町民地は、大体、表通り(大通り)と裏通り(裏路地)に仕切られた区画になっており、表通りに面した一戸建て借家を表店(おもてだな)と呼び、裏通りに面した借家(主として長屋)を裏店(うらだな)と呼んだ。
 長屋とは文字通り細長い家を切り割って数軒から十軒前後に分けた集合住宅である。長屋もいくつか種類があるが、一番多かったのが俗に九尺二間(くしゃくにけん)と呼ばれるもので、間口が九尺(2.7m)、奥行き二間(3.6m)、つまり六畳間の広さ(9.9平米)の裏店で、この中に入り口の土間や煮炊きをする竃(へっつい)と板敷きの勝手場がふくまれるから、畳敷きの部分は四畳半であった。それが居間兼寝室で、当然押し入れは無く、布団は昼間は畳んで部屋の隅に置き、ついたてで隠していた。屋根は低く、壁の高さは一間(1.8m)程度で、天井は張らず、屋根の裏がじかに見えるつくりであった。「九尺二間」と呼べば裏店のことを指す代名詞であった。
 九尺二間より更に小さい六尺二間半、六尺二間というのもあった。
 同じ長屋でも「割り長屋」というのは、二間二間(3.6m X 3.6m)で、表口と裏口があって、通風性と採光性もそこそこあったが、それより程度の悪い「棟割り長屋」というのは、これは幅広く建てた一棟を縦に半分に仕切って、両側に九尺二間を並べる形式で、部屋の三方が壁で開口部は入り口だけというものであった。
 いずれにせよ壁といっても、間仕切り程度の薄いものだから、お互いの話し声も物音も筒抜けで、隣で夫婦喧嘩でも始まれば、とめに行かずにはいられないという構造で、いやおうなしに親密な人間関係が育っていった。
隣に飯を借りにゆくというようなこともしょっちゅうあり、
川柳に「椀と箸 持つて来やれと 壁をぶち」というのがある。
 棟割り長屋が老朽化して、建てつけはガタガタ、戸は破れて無くなり、雨漏りはして、壁は落ち、畳の代わりにムシロを敷いた「戸無し長屋」、「なめくじ長屋」といったひどいものもあった。
 逆に、数は少ないが、奥行き三部屋ある大きな長屋や、二階建てのこぎれいな長屋もあった。こういう程度の良い長屋は表通りにもあった。
 しかしやはり一番多かったのは、九尺二間の棟割り長屋である。

・裏店の家賃
 長屋の店賃(たなちん)は、時代と場所によって違うが、江戸時代後期(化政期頃から幕末まで)は、二間二間の割り長屋で月七百文程度だったようである。文化年間(1804~)の江戸の日雇取り(ひようとり)の労銀が一日三百文程度だったので、月十五日働けば店賃は月収の15%程度で済んだ。それが九尺二間の棟割り長屋では五百文程度、「戸無し長屋」、「なめくじ長屋」になると月三百文以下であった。
 また店子(たなこ=借家人)も、月ぎめで店賃を払えず、日払いで八文から十二文づつはらうという貧乏暮らしも珍しくなかった。裏長屋の住民は一両(現在の金で八万円ぐらいか)あれば一月暮らせるような連中ばかりだったが、実際に金一両にお目にかかることはめったに無かった。
たまに一両手に入っても借金返済ですぐ消えてしまう。
川柳に「これ小判 たった一晩 居てくれろ」というのがある。

・長屋の路地
 表通りから道一本入った裏通りには、こうした長屋がずらりと軒を並べていた。
 それぞれの長屋の入り口には木戸があった。木戸は明け六つ(6時)に開け、夜五つ(20時)か四つ(22時)には閉じる。熊さん八っつあんが夜遊びで遅くなって、木戸が閉じられていると、木戸横に住む大家に開けてもらわねばならぬのだが、店賃を滞納していると大家を呼び出すのに、いくら、八、熊でも気後れがするものらしく、川柳に「跡月(店賃)を やらねば路地も たゝかれず」というのがある。
 木戸を通ると長屋の路地である。路地は幅三尺(約90cm)と狭く、中央に幅三寸(9cm)ほどの溝(どぶ)が走り、どぶ板が載せられている。程度の良い長屋になると、路地は六尺幅で溝も二本通してあるから、どぶ板を踏まずとも歩けた。土の地面を掘っただけの溝であるから、割と頻繁にどぶ浚いをしないと詰まって流れなくなってしまう。
 このどぶ浚いはその地域を管轄する仕事師(火消人足)の専売特許であった。火消しの親方などはその地域でいい顔であったが、自分等を卑下してしゃべる時「あたし等どぶ浚いは・・・」というような言い方をしたそうだ。結構良い収入になったという。
 路地の突き当りにはちょっとした空き地があって、そこに、共同井戸、共同ごみ箱、惣後架(そうごうか=共同便所)があった。どの長屋でも井戸と後架は近くにあった。これは、井戸も後架も大変大事なものであり、鬼門の関係で同じ場所にならざるを得なかったらしい。これは衛生上非常に問題があるのだが、江戸時代の人たちにはそんなことはわからない。
 井戸はおかみさんたちの毎朝のいわゆる「井戸端会議」の場所であった。
 惣後架はいたって簡単なつくりで、扉は低く、しゃがんでも頭が見えるという開放的なものであった。ここにたまる下肥は近在の百姓が汲み取りに来てお金を払い、その収入は大家の懐に入る習慣であった。その金で大家は年末に餅をつき店子に配った。川柳に「店(たな)中の 尻で大家は 餅をつき」というのがある。

参考文献:
     「江戸時代・人づくり風土記」 (社)農山漁村文化協会
     「江戸の二十四時間」 林美一著

◆野閑人@週末寝物語11

 けふは四つ時(10時)から晴れてきて、少し暖かくなったが、北風が吹き気温は低かった。
 あちこちの家の庭や野原に色んな花が咲き出した。梅は終わったが染井吉野が咲き始めた。日当たりの良い木は八分咲きぐらいのがあった。
 他には、白木蓮が満開、乙女椿も雪柳も咲き誇っていた。黄色い連翹も咲いていた。

<鰻の蒲焼の話>

 江戸の代表的な食物としては、蕎麦、鮨、天婦羅、鰻を四大ご馳走と言っても良いだろう。蕎麦と鮨のことは前に書いたので、今回は鰻の話を書こう。
 主として三田村鳶魚翁の「鳶魚江戸叢書第5巻」に拠って書く。

・蒲焼の語源二説
 蒲焼の語源には二説ある。一つは、蒲焼の起こりは鰻の口から尾まで竹串を通して、丸のまま塩焼きにしたもので、形が蒲(がま)の穂に似ているからこの名が起こったという説。
 もう一つは、天明(1781~)から文化(1804~)にかけて活躍した大戯作者山東京伝が「骨董集」という本で蒲焼の語源を考証している。それによると、京伝より七百五六十年も前の「新猿楽記」という本に「香疾(かばやき)大根」という言葉があり、これは、香りが疾(はや)く鼻の穴に入る意味だから、鰻を焼く香りが強いので、そこから来たのだという説。
 この両説、実は決着がついていない。筆者の個人的な感想としては京伝の説はちょっと穿鑿し過ぎの感じがあり、より自然に聞こえる前説を取りたい。
 なお俗説で、焼き色が樺色(かばいろ)であるから蒲焼であるというのは、根拠の無い安易なこじつけに過ぎず、取るに足りない説であることを申し添えておきたい。

・江戸の鰻料理
 鰻の料理は、他の料理もそうだが、当然、歴史の古い上方が発祥の地である。万葉集に家持の「むなぎめせませ云々」の歌があるが、その頃はもちろん蒲焼ではない。延宝七年(1680)に京都で編まれた俳句集に「かば焼」という言葉が出てくるらしい。この頃が蒲焼が初めて登場した時期であろう。
 江戸の鰻の蒲焼は、享保二十年(1736)の「続江戸砂子」という本に出てくるのが最初らしい。それから上記「続江戸砂子」にも、寛延四年(1751)の「新増江戸鹿子」という本にも、深川鰻、池之端鰻というのが出てくる。
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深川鰻、名産也、(深川)八幡門前の町にて多く売る。
池之端鰻、不忍池にて採るにあらず、千住、尾久の辺より取来る也、
但し深川の佳味に及ばずと云。
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この時分は深川鰻が一番よかったらしい。

・江戸前鰻
 江戸の鰻は辻売り(屋台店)が盛んで、当初は辻売りばかりで定まった家に店を構えた鰻屋というものは、天明年間(1781~)まで無かった。その後に出来た鰻屋としては、尾張町すゝき、牛込赤城前木村屋、同所裏門前神田屋、などの名前が見える。
 余談だが、現在、不忍池のたもとにある鰻屋「伊豆栄」は創業260年を謳っているが、260年前は元文年間(1736~)に当り、まだ鰻屋は存在しなかった頃である。創業時期が本当ならば、辻売り鰻から発展したのか、鰻屋以外の生業をやっていたのか、のどちらかであろう。
 江戸時代の鰻屋はあまり料理をしない。せいぜい肝吸物ぐらいであった。寛政・享和の頃(1789~1804)には、江戸回りは勿論、江戸市中にも鰻屋は少なかった。それが天保(1830~)の初めになると、一町に二、三軒あるところはあっても、一町にないところはないというぐらい多くなっている。
 辻売りは幕末まで盛んであった。一串十八文ぐらいだったという。また辻売りの一種で、舟で焼いて、両国の夕涼み舟に売る蒲焼もあった。
 辻売りや鰻屋の看板や、江戸の案内本の広告には、よく「江戸前鰻」と書かれ、他に、「厭離江戸前大蒲焼」、「江戸前大かはやき」等、必ず「江戸前」という接頭辞が付いた。後には江戸前というだけで鰻の蒲焼のことを指すようになった。
 ちなみに江戸前というのは「江戸城の前」ということで、正確には江戸城と隅田川の間の江戸城東側の狭い地域を指す。新橋、京橋、日本橋、神田ぐらいまでの場所である。その前の隅田川で取れた鰻が本当の「江戸前鰻」であろうが、実際は墨田の下流ではあまり鰻は取れなかった。そこで、深川の鰻だろうが、池之端の鰻だろうが、千住、尾久から来る鰻だろうが、何でもかんでも「江戸前鰻」となってしまうのである。

・鰻丼の始まり
 文化年中(1804~)の江戸に大久保今助という男が堺町の芝居の金主をしておった。非常に鰻が好きなんだが、芝居の金方だから忙しくて鰻を食いに行けない。鰻は食いたいが取り寄せたのでは焼冷ましになってしまう。だんだん考えた末、大きな丼へ熱い飯を入れて持たせてやって、その中に串ごと入れたやつを持ってきて食う、ということを発明した。
 この今助の取り寄せ方がうまいというので、こいつがまず芝居町にひろがった。そのうち葺屋町の裏屋で鰻飯を売り出したやつがあり、これは串を抜いたやつであった。それ以後だんだん、鰻屋でも鰻丼が行われるようになったという。
 ただし、鰻屋では、鰻丼を食う奴は喜ばれなかったので、少しましな店になると鰻丼のお客は二階へ上げず、下の焼いている傍で食わしたという。恐ろしい軽蔑をしたものである。

・江戸前鰻の産地
 大抵、鰻屋のあるところは近所で鰻が採れることになっている。産地に四つの筋目があった。深川鰻は深川周辺で採れ、池之端鰻は不忍池で採れ、御蔵前の鰻は吾妻橋の周辺で、あのあたりは御蔵の米がこぼれるから、鰻がうまいと言われ、神田川の鰻は神田川で採れ、と、これが江戸前鰻の素性、筋目であった。ところがこれが嘘八百で、実際は、深川周辺で少しだけ採れ、あとの三ヶ所はほとんど採れなかった。もちろん別な場所から持ってきていたのである。しかし、江戸っ子は通ぶって、どこの鰻がどうのこうのと言っていたから、まあその方が平和で宜しかったようだ。

・江戸前鰻の焼き方
 結局、鰻は産地より焼き方で、江戸前にも、まずい旅鰻にもなった。ここにひとつの江戸前の焼き方を書いておこう。
 はじめに白焼きにして、鰻が少し膨れてきた時、重箱のようなものに入れて重しをかけ蓋をしてよく蒸す。それから、タマリ三合に味醂一合、白砂糖二十匁ばかりを合わせてよく煮立てたあと冷やし、そのタレの中に鰻を浸して焼く。弱い火で長くあぶっていると脂気(あぶらけ)が抜けてしまうので、強い火で一気に焼き上げるようにすれば、いい具合な江戸前鰻が焼き上がる。


参考文献:
      「鳶魚江戸叢書5巻」三田村鳶魚


◆野閑人@週末寝物語10

<名妓逸話集その2>

・雲井
 江戸時代の吉原の高級遊女は芸事はもちろん、教養・見識の点で、町の一般子女(武家も含めて)よりもはるかに秀でていた。高級武家や大商人を惹きつけた魅力もそこにあるのである。特に江戸中期以前の花魁には詩歌を解する者が多く、優れた作句・文章等が今に伝えられている。
 前掲の三浦屋高尾の「君は今 駒形あたり 時鳥(ほととぎす)」や、茗荷屋奥州の「恋死なば 我塚で鳴け 時鳥」や、若糸の「宵々の 待つ身につらき 水鶏(くいな)かな」や、瀬川の「夕立や 嘘のやうなる 日の光」等の名句が残っている。また瀬川の漢詩「凧(いかのぼり)の賦」や、雲井の和文などはそんじょそこらの教養人を凌いだ。早い話が、雲井の「さとのらく書」などは、
 「物売る声などことのほか春めきて、長閑なる日影に大黒舞など舞ふ頃より、やや春深く霞渡りて、移し植えたる花も漸く景色立つほどこそあれ。折しも客足いと打続きて、心せはしく桜散り過ぎて青葉になりゆくまで、只色に心を悩ます」
 といった調子である。
 雲井は芝兼房町の菓子屋の娘で、継母の手にかかり、十九歳で吉原金屋三左衛門方に身を沈め、和歌、俳諧、国学、楷書を学んで、筆跡も見事だったが、贔屓の客が「女の楷書は殺風景だから、俺が封じた」と百両で買取って以来、女文字ばかり書いた。「さとのらく書」を読めば、源氏物語や枕草子を精読していたことがわかる。どうも大変な女郎である。

・金太夫
 虫も殺さぬ顔に白いもの塗って歌など読むのが昔の遊女かと思いきや、吉原江戸町桐屋の金太夫は大力女で名を残している。
 同じ家の隣の局にいる几帳(きちょう)という遊女のところへ、ある夜、幽霊が出た。実は、以前几帳に振られた男が、几帳を忘れられず、幽霊の扮装をして、夜這いにやって来たものであった。その物音を隣りの間で金太夫が聞きつけて不審を起こし、突然襖をあけて几帳の部屋へおどりこみ、逃げ惑う幽霊亡者の帯を鷲掴みにして、煙草盆でも提げるように自分の部屋に提げ帰り、ジタバタする亡者を左の膝下に押さえつけ、行灯の灯を近づけると紛れもなく人間である。亡者は「御免御免」とふるえている。几帳は腰が抜けて座り込んでいる。「今夜はこのまま帰してあげるけど、重ねて亡者の真似をしたら、私が本当の亡者にしてやりんす」と左の手で襟首を押さえ、右の握りこぶしで三つ四つ頭を連打し、「さあ迷わずに地獄へお帰り」と片手に亡者を吊り下げ、もう一方の手で庭木戸をあけて、茶殻でも捨てるように大道へ放り出し、息もはずませず自分の部屋にかえってきた。
 金太夫という遊女は、体格などはむしろ骨細い方であり、茶の湯の嗜みが深くて、まず楚々たる美人の部であったという。金太夫は、女だてらの腕ずくで始末を付けたことを深く恥じて、「今宵のことは、他に言うんじゃありんせん」とかたく几帳へ口止めをしたが、瘤を三つも四つもこさえられた亡者の方がおさまらず、あちこちで吹聴したものだから、金太夫の大力は世間に知れ渡ってしまった。

・松廼家露八
 遊女ではなく幇間(太鼓持ち、男芸者)の話であるが、幕末から明治にかけて吉原に松廼家(まつのや)露八という幇間がいて、幇間芸の名人といわれた。露八は、実は土肥庄次郎というれっきとした幕臣で、一橋家近習番頭取の長男として生まれ、剣術も免許皆伝の腕前であったという。しかし吉原通いで身を持ち崩し、勘当されて、食うてゆくのに吉原で本職の幇間になってしまった。
 その後長崎へ流れて、やはり幇間をしていたが、戊辰戦争が始まると、どういうわけかお家大事とばかり江戸に馳せ戻り、兄弟と一緒に彰義隊に入隊し上野戦争に参加した。戦は負け、敗走したが何とか生き残り、その後はまた吉原で幇間になり、死ぬまで幇間として世を過ごした。露八は、幇間がよほど性に合っていたのだろう。旗本の跡取り息子として生まれ、一人前の武士教育を受けた男が、世間体上は落ちぶれ果てて、花柳界で太鼓持ちやっている。しかし幇間の世界では一流と言われるほどになった。勝海舟なども贔屓にしている。一種の奇人と言えるだろう。 明治36年11月71歳で没。「死んだら、うちの菩提寺ではなく、彰義隊の野郎がたくさんいる円通寺に埋めてくれ」というのが遺言であった。吉川英治に「松のや露八」という小説がある。

参考文献:
  「鳶魚江戸叢書第十三巻、第二十六巻」三田村鳶魚
  「江戸から東京へ第二巻」矢田挿雲
  「氷川清話」海舟語録


◆野閑人@週末寝物語9

きのうは風が強うて暖かい日じゃったが、けふはうって変わって一日曇り空で冷やかった。梅花おはらんとす。桜いまだ咲かず。庭のアセビが満開の花枝を垂れ下がらせて、小型の藤の花のごとし。

<名妓逸話集その1>
 吉原へ通う客は、元吉原の頃はもっぱら武士階級であり、町人はいなかった。それが幕府の当初の遊郭設置の目的でもあった。戦国遺風がまだ色濃い頃で、気風の荒い武士共を江戸に集結させたのだから、こういう施設も必要だったのである。
 明暦三年(1657年)に新吉原に移っても、延宝度(1673年~)までは、まだ大名衆の吉原通いがあったが、延宝以後にはそれがなくなった。元禄以後(1688年~)の吉原は、もう町人のものになっていた。
 最上級の遊女を太夫と呼んだが、もともと「太夫」は大名の相手をする遊女の階級のことであり、大名衆の吉原遊びがなくなってから太夫もなくなった。以後の遊女の最上級は「呼び出し」の花魁ということになるのである。
 花魁(太夫)は奉公人とはいえ、大名に接する売物というので素養も格式も主人(楼主)を圧し、用があれば、主人から花魁の部屋に出向き、花魁の許しを得た後でなければ、座布団さえ敷けぬというくらいの権式があった。
・三浦屋高尾太夫
 名にし負う高尾太夫は吉原京町三浦屋の抱え遊女であるが、初代から七代目ぐらいまであり、遊女のまともな記録などもちろん残っておらず、言い伝えられた伝説が残るのみである。各代の高尾太夫はその特徴であだ名をつけられて後世に言い伝えられた。子持ち高尾、仙台高尾、石井高尾、駄染(だぞめ)高尾、小袖高尾、等々。
 一番有名なのは仙台高尾(二代目高尾太夫)であろう。仙台候伊達綱宗を吉原へ惹きつけたのが伊達騒動の原因になったように言い伝えられているが、伊達騒動の真因は幕府と伊達藩により隠匿され、本当のところはよく分かっていないのである。
 俗談による高尾太夫と伊達綱宗の逸話をそのまま記すと次のようである。当時の高級女郎の手練手管がよくわかる。
 綱宗公の吉原通いは度外れていた。その日も馴染みの勝山太夫と口喧嘩の挙句勝山をしりぞけて高尾を招き、後朝(きぬぎぬ)を惜しむかのごとく勝山に見せつけて引き上げると、高尾もまた硯引き寄せ、「・・・お館の御首尾はいかにと、忘れねばこそ思い出さず候、かしこ」などと名文の手紙を出し、ある日には仙台公が舟に乗り帰館の途中に、若者に手紙を持たせて追いかけさせた。その手紙には後世に残る有名な句を書き付けてあった。「君は今 駒形あたり ほととぎす」と来たから、綱宗公は高尾に真剣になってしまった。こういう句をあとから送られたら、大概の男は真剣になりそうである。
 ところが高尾に、情人(いろ)島田重三郎があると知った綱宗公は、意地づくから、高尾の体重と同じ小判の山を積んで身請けし、墨田川の中流、永代橋のところで高尾を吊るし切りにするという野暮の骨頂を演じたことになっている。もちろん実際には吊るし切り一件のことは後世の作り事である。

・茗荷屋奥州
 元禄の頃、茗荷屋の遊女奥州は、揚屋(あがりや)入りの提灯に「手れん偽りなし」と明記したなどは人を喰ったものであるが、おのが恋には妄執深く、ある太守(大名)との仲が絶えかかったとき、「恋死なば 我塚で泣け ほととぎす」と詠んだので、太守も機嫌を直して、奥州を請け出し、終生手活けの花とした。「恋死なば」の句は芭蕉や蕪村の選にも入って、今日に伝わっている。

・香具山
 この話は矢田挿雲翁の著書に出ている。筆者の好きな話である。
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 時代の程は判然としないのだが妓楼西村庄助方へ,藍染の股引をはき、醤油色に汚れた手拭で頬かむりをした年の頃三十三、四の百姓男が訪ねてきて、
「ここの家に香具山という名取のお女郎がいると聞いて、わざわざ見物に来ましただ。どうぞチョックラその女に逢わせてくんさろ」
といっているところへ、香具山が揚屋からもどってきて、この話を聞くやいなや、つかつかと百姓のそばに寄り添った。香具山は微笑をふくんで、百姓の顔をのぞきこみ、
「私が香具山でおざんす。こちらへ腰をかけて、ゆっくり見物してくんなんし」
と言いつつ、自分で茶を汲んで出した。百姓男は、
「とてものことに、酒を一杯ご馳走になりますべいか」
とすこぶるあつかましい。香具山はいやな色も見せず、冷酒をそそいで出した。すると今度は、
「うらあ、冷は一向いけねえでの」
とつかつかと炉のそばに上がり込み、袂から割薪を二本出して、火の中にくべて、酒の燗をした。
「こいつは上燗だ」
と舌鼓を打って香具山にさし、こうして二三度あっさりと盃をやりとりしてから、
「何年となく念にかけた太夫様を、見物できた上、そのお酌でお酒まで頂いて、こんな喜ばしいことはない。うらあ、これで明日おっ死んでも浮かばれるだ」
とコロコロ喜んで帰っていった。後にはドッと男衆や女衆が笑い崩れたが、香具山だけは襟に顎を埋めて、深い物思いに沈むようであった。炉にくべた割木からは、香の高い紫煙が立登って、天井にたなびいた。怪訝そうな人々を見上げて香具山は、
「今のお人は、田舎者のようにいわんすけれど、身分のある人が、私をからかいに見えたのでおざんしょう」
と試さるる身の淋しさを、愛くるしい笑いに紛らしていった。薪の薫りはむせるばかり烈しく高まってきた。炉の中の薪は、驚いたことに伽羅の名木であった。
 それから二ヶ月ぐらい経った頃、芝の方から来た客が大商人という触れ込みで香具山を呼んだ。その客は以前の百姓男であった。しかし香具山は少しも驚かず、予定のことが予定のごとく現れたという顔付をしていた。客もまた先だってのことは少しも言わず、伽羅の割木のことはおくびにも出そうとしなかった。
 通な男と通な女が互いの通を殺して一見平凡に、そのくせ五分の隙もない、充実した遊び方をしてわかれた。それから二三度男が来たと思うと、香具山は綺麗に根引きされて(請け出されて)廓を出た。
 芝の大商人というのも、その実は嘘で、香具山が初対面のときに鑑定した通り、ある大身の旗本であったが、ただしその本名は知れずにしまった。ただ、あまり、好男子でないその旗本に対する香具山の思いが、日増しに火の如く募っていったことだけが、言い伝えられている。
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参考文献:
     「鳶魚江戸叢書大二十六巻」 三田村鳶魚
     「江戸から東京へ第二巻」  矢田挿雲


◆野閑人@週末寝物語8

 けふは風冷たく晴天。9時ごろから昼過ぎまで犬コロと散歩。
日当たりの良い他人の庭のよく剪定された小さめの染井吉野の一もと、驚いたことに満開であった。しばし陽だまりで立ち止まって、眺めていた。


<新吉原の話その2>
 新吉原の話も考証のつもりで書いているので、諸書の事実と思われる部分をできるだけ忠実に拾い上げようとしている。今日の常識に照らして不適当な表現も多いが、史実として伝えるため諸書の表現をそのまま採用する。

 文政八年の記録によると、新吉原の女郎屋の数は次の通りである。
女郎屋には上中下があり、上から順に言うと、大見世(惣籬-そうまがき)三軒、中見世(半籬)十七軒、小見世(惣半籬)百二十軒、小格子十八軒、長屋七十四軒。

 大見世には一分(1/4両)より安い女はいない。いわゆる「全盛遊び」をする第一級の遊女(花魁、太夫)は一両から一両三分である。下の方は、小格子(一名チョンチョン格子)と、更にそれより下の長屋になると百蔵という百文の女が居た。しかし百蔵も文政期には二百文に値上がりしていた。二百文といっても、半纏股引の並の江戸っ子には簡単に遊べる金ではない。やはり吉原は唯一の公許の遊郭だけあり、他の場所にある岡場所とは格が違っていた。
 吉原の大見世は、役者・芸人は一切上げなかったそうである。小見世でも半纏股引の手合いは上げない。熊さん八つぁんの手合いはチョンチョン格子か長屋でなければ上がれなかったのである。

 第一級の花魁は「呼び出し」といって、自分の娼家では見世を張らない。同じ家でもより下級の遊女は見世を張るけれども、第一級は、新造・禿(とく)というような自分の取巻き共を大勢引き連れて仲之町の茶屋へ出かけて行き、客を連れて自分の家へ戻ってくる。
 つまり客は娼家に直接花魁を尋ねることはせず、まず仲之町の引手茶屋へ行き、そこから花魁を呼んでもらうのである。当然客は一両三分の揚代だけでは済まないことは明らかであろう。
 まず茶屋で、花魁を迎えて、客は暫時酒盛りをする。そのとき、芸者を呼んで賑やかにやる。このときの入用(費用)が、茶屋へ上がり代が三分。芸者二人に二分、芸者新造に一分、茶屋雑用が二朱、茶屋の亭主の祝儀に二分。ここまでで既に二両二朱(現在の金で20万円程度)かかっている。
 それから、花魁の家に送られるのだが、この時は花魁一行が先立ちになり、茶屋の亭主、芸者が二人、箱屋、茶屋の女房・娘、下男、下女、と大変な同勢になって娼家に繰り込むことになる。

 吉原の三大景物といえば、春の夜桜と旧暦七月の玉菊燈籠と八月の俄(にわか)踊りだが、これを書いていると長くなるのでまたの機会にゆずって、三大景物に次ぐ花魁道中のことを書いておこう。
 花魁道中はまあ言わば、遊女の大道宣伝である。旧幕時代に発達した足の芸術では、なんといっても花魁の八文字と大名行列の槍持が両大関であった。吉原の遊女は廓外へ出るのを禁じられており、それならそれで、新吉原の江戸町から京町の間を東海道と見立て、道中と称して歩いたのである。これの描写は矢田挿雲翁の「江戸から東京へ第二巻」の見事な描写をそのまま引用することにする。
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 旧幕時代に、親しく花魁道中を見た不良老年の話によれば、まず鳶の者が二人金棒を鳴らして、先駆を承わり、次にその家の若者が、花魁の定紋のついた箱提燈をたずさえて道を照す後から、花魁が若者に長柄の傘を差しかけさせて、そろそろと八文字を踏む。これに従うもの禿二人、抱え五六人、新振り、番新など称する男女数名、都合十余名の一行が、行きに左側を通れば、帰りには右側を通り、行きに右側を通れば、帰りは左側を通って、二三町問の東海道旅行を終えるのである。
 花魁が道中に着るうちかけは、牡丹に唐獅子、雲に竜などの刺激的な模様を、金糸銀糸でコテと縫いつぶし、白綸子(りんず)三枚襲ねの小袖に五つ紋をそめ、頭には玳瑁(たいまい)の櫛、珊瑚の笄(こうがい)を蟹の脚のようにさして、素足に高い塗り下駄をはき、両手を懐に入れ、決して脇目をふらず、水平線と平行に正面を見据えたまま、五十三次を全部買切ったようなすまし方で、まず左かかとの足から踏み出し、その位置を中心として、左方に半弧形を描きながら、踵(かかと)だけ下し、次に履物全体を地につける。次は右足を進めて、同じような体操を繰返すのである。
 この花魁のお通り筋にあたる茶屋の主人は、かならず店頭に出迎えて、ご挨拶を申上げねばならない規則になっている。しかし花魁はこれに対し、お言葉を賜わるようなことはない。ただ艶然一笑して店頭に腰をおろし、主人が勧める長煙管で、煙草をくゆらすのみである。その代り花魁がもし茶屋の前で転べば、そのばつとしてその茶屋に上り、総振舞をすることになっていた。これは費用よりも何よりも、遊女一代の大恥辱であったので、彼女等は、歌、俳諸、活花、茶事、琴曲の稽古の間に、この体操の練習を怠らなかった。文武兼備というも愚かなりである。
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参考文献:
       「鳶魚江戸叢書第二十六巻」 三田村鳶魚
       「江戸から東京へ第二巻」   矢田挿雲


◆野閑人@週末寝物語7

今日は晴天じゃったが、しょう冷やかったねえ。
ゆふがた雲が出てますます冷え込んできたちや。
風邪引かんようにせにゃあの。おーの、冷やい。


<新吉原の話>
 江戸を語るとなると、吉原の話はどうしても避けて通れない。
幕藩体制下の江戸の娯楽というものは、現代に比べればもちろんはるかに少なくて、最大級の娯楽といえば、江戸三座の芝居と新吉原ぐらいしか無かった。
三大祭や両国川開きは一時的なものであり、両国広小路や上野山下の賑わいも江戸っ子にとっては楽しみではあっても極め付きの娯楽と言うほどのものではなかろうと思う。
 それで、吉原に関する種々の逸話や列伝はまたの機会にまわすとして、今回は新吉原の成立と歴史を平板に述べてみようと思う。

 権現様(家康)の江戸開府以来、江戸は男の地であった。
当初は相次ぐ土木工事で全国から人夫が集められ、それらが住み着き、すぐ後には各大名とその家族や家来が江戸定府となり、国許から出てきて江戸屋敷に詰める各藩の武士達は今で言う単身赴任であった。
 その後も江戸の発展に従い、関東周辺地区の百姓の次男三男四男が職を求めて江戸にやって来る。そんなこんなで江戸には上下の別なく独身の男が満ち溢れ、男の数が女の数を常に上回るという状態が幕末まで続くのである。

 江戸時代の人口統計は甚だあてにならぬ体のものであるが大体の人口の傾向は読み取れるので、参考のため嘉永六年(1854年)の統計を挙げると、男295,453人女279,472人となっている。これは市街地だけ、つまり町奉行支配下の分(武家、寺社を除く)だけだが、飢饉に対するお救いのため人数改(あらため)をやった記録である。
「しかし実際は、女の数が少ないというよりも、独身者が多い。士にしても町人にしても、江戸は独身者の多いところだったのです。」(三田村鳶魚)

 というような訳で、旺盛な需要に答うべく、江戸の町のあちこちに自然発生的に娼家が発生した。また上方から利にさとい商人達が来て意図的に娼家を経営した。「そういう店が麹町八丁目と鎌倉河岸に十四軒づつ、柳町に二十軒余あった。(中略)その柳町には江戸土着の遊女が集まり、麹町には京都六条から移転した娼家が軒を連ね、鎌倉河岸には駿府弥勒町から移住した女たちがいた。」(矢田挿雲)。

 こうして開府以後二十四、五年は娼家の住所に制限は無かったが、元和三年(1617年)庄司甚右衛門の献言により日本橋地区の葦原(よしわら)に土地を賜り、江戸中の娼家を集めて、初めて一廓の花柳街が形作られた。葦原は縁起を担いで吉原と表記されるようになった。これが後の新吉原に対して元吉原と呼ばれる場所である。今の人形町の辺りらしい。正方形に近い区画で二町四方の大きさであった。一町は約109mなので218m四方である。
江戸初期の日本橋は葦(よし)の生い茂る湿地帯であったので葦原もしくは葭原と呼ばれていた。。今でも日本橋葭町(よしちょう)の地名が残っている。

 しかし日本橋一帯の市街が発展するにつれて、風紀上の理由で、吉原移転問題が何度か幕府でも検討された。ついに、明暦三年(1657年)の振袖火事(明暦の大火)で吉原も烏有に帰し、これを機会に強制的に日本堤下の浅草田圃に移転させられることになった。
 しかし吉原の年寄連もなかなかしたたかで、幕府と交渉し、いくつかの有利な条件を引き出した。それは新吉原の営業区域は旧吉原の五割増、即ち二町に三町の区域をゆるし、従来の営業時間は日中だけであったものを今後は夜も女郎屋をしてもよろしいことになり、その上、一万五千両の移転料を下げ渡してもらった。別の感想になるが、この措置を見ても、封建の世に幕府が、決して庶民にたいして圧制を行ってはいなかった、という一つの証左だと筆者は思うのである。徳川幕府は権現様以来優れた治世を行っていたと思う。

 これが元吉原に対して新吉原と呼ばれ、昭和36年の赤線廃止まで二百年続くのである。新吉原の町割も元吉原と同じく、大門(おおもん)を入って仲之町、それに交差する左右の町が江戸町一丁目、同二丁目、揚屋町、角町、京町一丁目、同二丁目と、いわゆる五丁町に区分されていた。

 江戸の嫖客が吉原通いをする代表的なルートを言うと、猪牙舟に乗り、隅田川を遡り、お蔵前の首尾の松に今夜の上首尾を祈り、山谷掘の今戸橋のところで舟を降り、後は徒歩か駕籠で日本堤を行き、見返り柳のところから左手に土手を下り、衣紋坂を通って大門に達した。衣紋坂の両側には二十五軒づつ計五十軒の茶屋が並び、大門に入る前に軽く腹ごしらえをしたり編み笠を借りたりした。旧幕時代の遊蕩児は遊蕩は悪事であるとちゃんと心得ていたから、編み笠をかぶり顔を隠したのである。このため五十軒の茶屋は編み笠茶屋とも呼ばれた。

参考文献:
      「鳶魚江戸叢書第二巻、第九巻」   三田村鳶魚
      「江戸から東京へ第一巻、第二巻」  矢田挿雲


◆野閑人@週末寝物語6

けふはちっくと気温が低かったけんど、天気はエイかった。
犬コロと3時間も武蔵野をほっつき歩いたちや。

<江戸の料亭(2)>
 山谷の八百善と並んで江戸に名を轟かせていた料亭は深川八幡前の「平清」であった。八百善はあまりにも有名な店で色々な書物にも書き残されているが、筆者の寡聞のせいか、平清の逸話にはあまりお目にかからない。

 平清は文化年中(1804年~)に深川八幡前に堂々たる家を作った。辰巳(深川)の花柳界がもっとも殷盛を極めた時代である。料理屋で風呂場の設備をしたのは平清が最初で、これが江戸っ子の人気を呼び、ついに八百善と江戸料理界の覇を競うほどの名店になってゆくのである。以後同様の店が増えてゆくが、江戸っ子にとって料理を食う前に風呂へ入るのが流行になったという。これを湯治と称したらしい。平清開店のときのビラは太田蜀山人が筆を執って、「今度御ヒイキ御引立をもって、十番地へ湯治場料理店相始め・・・」と書いてやった。

 平清の料理は辰巳式といわれて、小魚類の新鮮さとその調理に一種の味があったという。鰻、蛤、浅利などは深川名物であったし、前にも書いたように江戸前ニギリ鮨も深川で発達した。平清の料理は最後に必ず鯛の潮汁が出た。それは塩加減が絶妙で絶品の味だったという。

 東両国の「青柳」は裏口が隅田川に面しており専用の桟橋があった。その桟橋から屋形船に仕出し料理を運んでいる絵が残っている。青柳に関しては、氷川清話に勝海舟自らが語った逸話が記録されているので、少し長いがそれを丸のまま引用しよう。当時の高級料理屋の女将の心意気と海舟の性格が良く出ていて非常に面白い。


氷川清話より:

○ 「八百松」の婆も非常なやり手であったが、「松源」の婆は、彼女に比べると、いまいっそうの手腕家であった。昔は、この種の人間に、よほど傑物があった。「青柳」のおかみなどもやはりその一人だ。もちろん高尚の教育などあろうはずはないが、実地に世間の甘い辛いをなめ尽くしてきただけあって、なかなかおもしろいところがある。
 あの婆などが世間に幅をきかせた時分には、おれはあれらの顧問官で、よくその人物を知っているが、彼らの人を鑑識する眼力といい、その交際のぐあいといい、とても今の政治家などの及ぶところでない。
 昔、おれが田安家へ往来していたころに、「青柳」〔料理屋〕は、近所だったから、いつもそこで昼飯を食った。
 ところが十二月二十九日のことであった。例のとおり昼じたくにいったところが、若い者どもは揃いの半纏で、女中どもと掃除するやら、餅を運ぶやら、いわゆる年越しの準備で、なかなかの景気にみえた。
 昼食の給仕には、いつも必ずかみさんか、娘かがでたが、この日は、かみさんは多忙であったものだから、娘がでてきて給仕をした。
 そこで、おれが娘に「家もなかなか景気がいいと見えるな」といったら、そのことを娘が帳場へいって伝えたとみえて、しぼらくするとかみさんがでてきて、いろいろと挨拶の末、
「殿様、ただいま娘に宅のようすのお話があったそうですが、殿様には、私どもの暮らし向きは、とてもおわかりになりますまい。殿様には、ちょっと景気がいいように見えましょうが、実のところを申せば、ただ今は金といって一文もありません。それがために亭主は、せっかく才覚〔やりくり〕に出かけておるのでございます。けれども大晦日のことですから、どこへまいっても、とても問に合う気づかいはありますまいと存じます。お見かけのところは、ほんの世間に対するていさいをつくろう義理ばかりで、よし金がなくて苦しくても、するだけのことはいたしておかないと、自然と人気(じんき)が落ちてまいりまして、終いにはお客さんが、ここのものはサカナまでが腐っているとおぼしめすようになってしまいます。ぜんたい、人気の呼吸と申しますものは、なかなかむつかしいもので、いかほど心の中では苦しくても、お客様方にはもちろん、家のうちの雇い人へでもその奥底をみせるといけなくなります。この苦痛を顔色にも出さず、じっと辛抱しておりますると、世の中は不思議なもので、いつか景気を回復するものでございます」
 といったが、その胸にある苦痛を少しも顔色にあらわさず、いかにも平気らしいようすをみて、おれもそのときは、ひどく感心した。
○ 全体、外交のかけひきといえば、なかなかむつかしくって、とても尋常の人ではできないように思っている人もあるが、つまりこのかみさんの呼吸のほかに何もあるものでない。ただ外交ばかりでなく、およそ人間窮達の消息も、つまりこの呼吸の中に存すると思うよ。
 おれはかみさんの話に感心したあまり、「お前、金が入用ならおれがあげよう」といった。するとかみさんは、たいへん喜んで「どうかなりますことなら、しばらく拝借を願いたい」といった。そこで、おれは紙入れの底をはろうて、三十両ほうりだしてやった。
 そうするとかみさんは「この三十両は、ただいまの私には確かに、三百両の価値がござりまする」といって、いただいて収めた。
 その後しばらくたって、また田安家からの帰途に、かの「青柳」に立ち寄ったところが、こんどは真実に一陽来復で、なかなかの好景気であった。
 そこでかみさんもいたく前日の礼をのべて「春になりましてから、二、三回も多人数の送別会などが続きまして、景気も大いに回復いたし、おかげで三、四百両も利益を得ました。これはまことにありがとうござりました」といって、前日貸した三十両の金を返した。
 おれはその金を突きもどして、「この金はお前にあげる。実は、この間のお前の話でおれもたいへんによい学問をした。お前は、なかなか感心なやつだ。ちゃんと胸の中に孫呉の奥義をそらんじ、人間窮達の大哲理を了解しているのだ。この金は、かような結構な学問をしたその月謝と思うて進上するから、取っておけ」といって、三十両をくれて帰ったことがあった。

参考文献:
       「江戸庶民風俗図絵」 三谷一馬
       「氷川清話(海舟語録)」吉本襄編
       「江戸から東京へ第七巻」矢田挿雲
◆2004年2月27日
野閑人@週末寝物語5

けふはきのうとうって変ってしょう冷やかったねえ。ずっと晴天じゃったが。
あちこちの沈丁花が匂いだいたが、明日も冷やかったらいやじゃのうし。


<江戸の料亭>
 前回の鮨屋と同様に、江戸の料亭(仕出し、会席、料理茶屋等)も文化文政期(1800年頃~)から幕末にかけて大いに隆盛した。十一代家斉将軍の贅沢が、諸侯、旗本、御家人、町民にいたるまで伝染し、かつ貨幣経済の発達とあいまって江戸っ子の食い道楽趣味は頂点に達しようとしていた時期である。

 数ある江戸の料理屋の中で、江戸市中第一流の料理屋としては、山谷堀の「八百善」、深川八幡前の「平清」、柳橋の「川長」、両国の「青柳」などが上げられるが、中でも八百善は、幕府から料理の用命を受けるほどの店で、調理は精美高踏で、室内の結構が古雅を極めた点ははるかに他の店をしのいでいた。

 八百善の会席料理はその高級さから、並の江戸っ子には縁がなかった。
蔵前の札差や他の富商や諸侯のお留守居役や役者等が主なご贔屓で、それはまあ一種高慢ちきな江戸趣味的超高級料理と言っても良いかもしれない。
 いろんな本に断片的に登場する八百善の店やその料理に関するエピソードを思い出すまま上げてみよう。

・ある客が八百善に上がって、「極上の茶漬」を注文した。ところが、座敷に上がって待てど暮らせど「茶漬」は出てこない。半日も待った頃やっと茶漬と漬物が出てきた。客は茶漬と漬物を食い、さて値を聞くと一両二分だという。
〔ちなみに一両あれば当時の裏店(裏長屋)住まいの江戸っ子が一月は暮らせた。筆者の感覚で言うと一両は現在の十万円ぐらいに相当するかと思っている〕。
 客が苦情を言うと、八百善の主人が出てきて、言うには、漬物は春には珍しい瓜と茄子を使い、茶は宇治の玉露、米は越後の1粒選り、中でも最も金のかかったのはお茶に使った水だと言う。ここら辺りは水が悪くて茶を入れるに良い水がありませぬ。それで人をやって、多摩川の上流(玉川上水取水口)まで良い水を汲ませに行かせました云々・・・と説明した。客は「さすが八百善」と感心して一両二分払って帰ったという。
(出典忘失)

・勝海舟が若い頃、噂に聞く八百善の料理は噂ほどのものか、ひとつ俺が八百善の値踏みをしてやろうと、八百善へ上がり、「一番いい料理」を一人前注文した。出てきた料理は精美を極めたものであった。食う前に値を聞くと、二十両ですという。海舟は、まあそんなところを言ってくるだろうと予想していたが、わざと文句を言った。すると八百善の主人が出てきて、言うには、この料理はこういう材料を使ってこういう風に料理してと説明を始め、ご覧下さい、この鮪は寸分たりとも違わぬ大きさに切り揃えてあります。一尾の鮪の一番いいところを一人前取り、あとは捨てました云々と説明をする。海舟は最後まで聞いてから「気に入った。おめえの言う通りだろう。」とその場で二十両をぽんと払い、ゆうゆうと料理を食って帰った。
(「氷川清話」または「海舟座談」該当箇所探せず)

・、ある医者が、陶器の容器を携えて、美味で有名な八百善のはりはり漬を買いに行った(はりはり漬とは如何なる漬物か筆者は知らない)。代金三百疋(三千文、現在の金で約六万円ぐらいか)取られた。そこで医者は、八百善のはりはり漬の製法を聞いた。答えるに、手前方のはりはりは、尾州の細根大根の最上質のものを一把選び、更にその中から良いのを二、三本選びあとは捨てます。辛味を生ぜしめるため水に洗わず、最初より味醂酒にて洗いますので高価になります、と説明した。「八百善が求めに応じて作る料理は、その価(原価)を顧みざる、往々この類なりき」とある。
(「五月雨草紙」-「江戸庶民風俗図絵」より又引き)

・文化九年(1812年)三月末、日本橋魚河岸に初かつお十七本が入荷したとき、八百善は二両一分ずつで三本を仕入れたという。
(出典忘失)

・「八百善の女中は少しもお世辞を言いません。着物は全部木綿で、どんなに若くても黒襦子の帯、白粉はごく薄い化粧をしていました。」
(「明治開化綺談」-「江戸庶民風俗図絵」より又引き)

・山谷堀の岡場所にも「堀の小万」という吉原芸妓、柳橋芸妓に引けを取らない名妓がいた。ある時小万は太田蜀山人に八百善へ呼ばれた(文政頃であろう)。蜀山人は小万の三味線の胴裏へ、「詩は詩仏 書は米庵に 狂歌乃公(おれ) 芸妓小万に 料理八百善」と書いて与えた。当時、蜀山人の声望は非常なもので、断簡零墨といえども人々が争って求めた頃だから、八百善の主人四代目八百屋善四郎は、そうと聞くと、蜀山人の座敷に転がり込み、「芸妓小万に料理八百善、先生、まことにどうも有難い仕合せでございます。先生からこうと折り紙をつけて頂いたからは、小万さんはもう八百善にはなくてならぬ人です。」と、それ以来小万を極力引き立てることになったという。
(「江戸から東京へ第三巻」)
別伝に、
「詩は五山 書は鵬斎に 狂歌われ 芸者おかつに 料理八百善」
というのもある。

・料理屋を開業する以前の八百善は、明暦の大火(1657年)後に、山谷で八百屋を始め、(一説に享保二年(1717年)という)その後享和年間(1800~)に仕出し料理屋を始め、文政(1818~)の初め頃から座敷で客をとる料理屋に発展した。文政期にはもう江戸第一番の料亭として通っていた。
 八百善の主人も何代か続き、幕末の八百善の主人は、その手下五百人を一声で動かしたという。客商売で色んな客があり、武家も多く、理不尽な客への応対や掛金の取立て、その他の諸々の用事で、手下を多く飼っておく必要があったのではないかと筆者は勝手に想像している。
 幕府瓦解のとき、勝海舟は、破落戸(ならずもの)やその他乱暴者の暴発・暴動を心配した。無血開城する前後の江戸の治安維持のため、海舟は、破落戸、他の取締りを、江戸の侠客で火消しの大親分新門辰五郎(子分三千人と言われた)と八百善の主人に依頼した。海舟の、親父小吉以来の江戸での顔の広さを思い知らされる話でもある。
(「氷川清話」)

参考文献:
   「江戸庶民風俗図絵」三谷一馬
   「氷川清話」(勝海舟語録)
   「海舟座談」(勝海舟語録)
   「江戸から東京へ第三巻」矢田挿雲

◆2004年2月20日
野閑人@週末寝物語4

この週末は関東では晴れるらしいの。月曜から雨だといふ予報。
確かに北京の天気がだいたい3日遅れでやってきているやうじゃの。


<江戸前の鮨の話>
 江戸の名物、と言うでもないが、文化文政期(1800年頃~)以降の食い物で江戸っ子と切っても切り離せないのは、鮨、蕎麦に天婦羅、鰻である。この四種類とも元の元は関西から伝来したものだが、江戸でそれぞれが江戸風の発達を遂げた。特にニギリ鮨は江戸が発祥で、江戸独特のものであり、発明と同時に大繁盛し、やがて大阪へも広がってゆく。この江戸前鮨の歴史を少し見てみよう。例によってこつこつ少しづつ文献に当たってみる。

 寛政期(1790年代)まで江戸の鮨と言えば大阪から伝来した圧鮨(おしずし)が主たるものであった。他には笹巻鮨、ちらし、稲荷鮨などもあって、寛政頃にはこれらの鮨は江戸中に流行り、よく食べられていた。

 圧鮨とは四角い鮨桶に鮨飯を詰め、その上へ具を載せて蓋をして3、4時間圧迫し、味がついた頃鮨箆(すしべら)で一区画づつ切り取り紅生姜(実は梅の酢漬け)を添えて客に出す。なにしろ客の顔を見て「只今できます」といってから3、4時間待たされるので出来立ての鮨を食べるには一日がかりで出かけねばならなかった。すぐ出てくる場合はきっと一日も二日も経ったやつで魚の膏(あぶら)のまわり過ぎたやつだった。どっちにしろ食通ぶって気の短い根っからの江戸っ子には鼻もちならなかった。

 江戸前ニギリ鮨を発明した者は、実ははっきりと分かっていて、本所の裏長屋に住んでいた与兵衛である。寛政年間に霊岸島の八百屋に生まれ、九歳で浅草蔵前札差業の板倉屋に下男奉公し、十数年律儀に勤めた。「根っからの江戸っ子で、奉公人のくせに銀煙管(ぎんきせる)を持ったり、わずかな給金の前借をして骨董の贋物(いかもの)を買い込んだりして、いよいよ奉公が済んだときは一文も身につく金がないというような、うれしい心がけの男であった。」(矢田挿雲)

 その後道具屋、菓子の行商などをやったが片っ端から失敗した。
札差業の家に長年奉公して通人趣味の真髄を身につけていた予兵衛老人はかねてから大阪伝来の圧鮨にあきたらなく思っていた。予兵衛はここに目をつけて文政初年(1818年頃)初めて今日のようなニギリを完成し、屋台店で売る鮨として商った。
江戸っ子らしく、屋台に不似合いな山本のお茶(当時の高級品)を汲んで出したりして、当時食い道楽の頂点に達しつつあった一般江戸人に大いに受けて、予兵衛の屋台鮨は大繁盛した。予兵衛は横網町の長屋を引き払い元町の表店(おもてだな-借家)に移って、家の前に屋台を出し、出前の注文にも応じ益々繁盛し、ついに隣の長屋も買って改築し、客を座敷に通すようにした。これが江戸前鮨を代表する両国の「予兵衛寿司」である。

 一度予兵衛寿司をつまんだ者は、親指と人差指とに垂れた醤油を、指の股の方から逆になめ上げて、「こいつは乙だ」と首を振らずにはいなかった。
 その後予兵衛の繁盛を見て江戸前ニギリ鮨の店が江戸中に広がった。他で有名なのは浅草平右衛門町の「松の寿司」などがあった。超一流料亭である山谷の「八百善」、深川の「平清」なども大いににぎり鮨を出した。江戸市中では、一町内に鮨屋が必ず1、2軒、蕎麦屋が1軒ぐらいの割合にあり、ニギリはほとんど江戸食通界を風靡するの感があった。一方大阪鮨は漸次衰えて、一時はまったく影をひそめたという。

 にぎり鮨が発明されて以後、江戸っ子の鮨に対する味覚は他の食物に対すると同様に異常に発達してきた。つまり有体に言えば通人ぶってうるさくなってきた。
 まず第一に、飯粒の丸みだとか、光沢だとか、白さだとか、硬さだとか、粘り気だとか鮨飯にうるさくなった。それからもちろんネタの良否から、また鮨の握りようから、わさびの産地から、醤油の良否から、そんなものがうるさくなり、果ては食う方にまで何だかんだとやかましくなって、二本指でつまむのがどう、三本指でつまむのがこう、とつまみ方にまで粋と野暮の差別を生ずるにいたり、うっかりと鮨もつまめなくなってきた。
こういう江戸っ子的な爛熟の結果は、ずいぶんばかげた、かえっていやみな「通がり」に堕することが多い。

 幕末頃の代表的な鮨ネタとしては、卵焼き、車海老、芝海老そぼろ、白魚、鮪、こはだ、あなご、等があった。以上のニギリはすべて一個八文で、卵焼きのみが十六文であった。しかし最高級鮨店である「予兵衛寿司」「松の寿司」などでは一個三匁も五匁もする高い鮨があったらしい。

 なお旧幕時代は鮨は夏のもので、十月以後、あらゆる鮨屋は休業するか、または鮒の昆布巻を売って、年を越さねばならなかったらしい。

参考文献:
       「鳶魚江戸叢書第五巻、第六巻」三田村鳶魚
       「江戸から東京へ第四巻」    矢田挿雲

◆2004年2月15日
野閑人@週末寝物語3

けふもきなふに続いて良いお天気で暖かかった。
犬コロと散歩したら、途中で犬コロが息せいていた。

<夜鷹の話>
 新吉原は唯一の幕府公許の遊郭であり、それなりの格式を誇っていた。
他に非公許の、いわゆる私娼窟で岡場所と呼ばれる遊郭があった。
有名なところは、深川七場所、品川、内藤新宿等である。岡場所も非公許とは言え立派な造りの遊郭が立ち並んでおり、格式が吉原より下がるというだけの違いであった。格式が上だろうが下だろうが、嫖客登楼してすなわち遊君といたすことは同じである。

 しかし、吉原も岡場所も安くはないので江戸っ子の大部分を占める細民階級の誰でも遊びに行けるわけではない。馬方や駕篭かきやその他の、岡場所でも遊べない連中のためにはちゃんとそれなりに用意されていて、夜鷹とか船饅頭とか呼ばれる最下級の私娼群が江戸にはあった。船饅頭はさておいて、これも歴史の真実として夜鷹について少し。

 「京で辻君、大阪で総嫁、江戸の夜鷹は吉田町」とある通り町から町へさまよって、稼業を行う。もちろん露天である。白い手ぬぐいで頬かむりをして木綿の着物に木綿の帯、くるくると巻いた筵(むしろ)を手に提げて辻に立ち、道行く人を呼んだ。筵はもちろん臨時のベッドになるのである。

 夜鷹の巣窟は川向こうの本所の吉田町にあった。毎日夕方になるとこの娘子軍は両国橋を渡り、或いは渡し舟に乗って江戸へやって来る。安藤広重の「名所江戸百景」の「御厩河岸」の絵には本所から渡し舟に乗って浅草方面に仕事にやってくる二人の夜鷹が描かれている。娘子軍は毎晩、両国橋の本所側のたもとにある駒留橋に勢ぞろいして各方面に繰り出した。辻に立ち道行く男を「おいでおいで」といって呼んだ。一種異様な音調であったらしい。心得のないものは幽霊だと思って腰を抜かしたという。

 飢えたる男は食を選ばない。「ヌエよりも化鳥(けちょう)の多い吉田町」と言われた物凄い女と路傍の契りを結び、八文、九文の報酬を与え、土ぼこりをはらって、すました顔をして帰ってゆく。相場は宝暦、明和の頃(1750年~)二十四文ときまっていたが、後になると夜鷹も贅沢になり、古物ながら縮緬の着物に半纏などをひっかけるようになった。したがって経費が膨張し、したがって売価が膨張した。後には百文、二百文と騰貴した。

 吉原でお職を張れないような、或いは岡場所で売れっ子になれないような二流、三流の遊女や芸妓達が、年を取って、さらに身についた売色稼業がやめられず、夜鷹になるケースも多かった。四十あまりの大年増も多く、中には「本所から出る振袖は賀を祝い」と還暦過ぎても悲惨な路傍のなりわいを、死ぬまでやめぬ者もあった。

 平戸の殿様松浦静山公(1759-1841)の書いた「甲子夜話」という随筆にひどく暗い記事がある。
インターネットで見つけた口語訳があるので勝手に引用させてもらおう。

『甲子夜話』巻之六十七より

 泰平の世の中ではあるが、広い都の隅々では、ひどく残忍なことも行われている。
 以下は、ある女性の体験談だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ある日のこと、わたしは船で深川まで行く途中でした。
 三叉(みつまた)のあたりを通ったとき、傍らにやや大きな船がいて、
 中に病気らしい女が横たわっていました。女は苦しげな声で、
 「せつない。せつないよ……」と言っています。
 女を五六人が取り囲んでいて、「もうすぐだ。医者に連れていってやるんだから」
 と声をかけていました。
 ところが、私の乗った船が十間ばかりもこぎ離れたときです。
 向こうの船のほうから大きな水音がしました。
 私は、「何なの?」と、船に乗り合わせた人に尋ねました。
 「あれはな、今の病人を水に投げ込んだのさ」
 わたしは覚えず身震いし、ただ涙を流すばかりでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その病気の女は「よたか」といって、最下等の売春婦なのだ。
 年老いてしまうまで抱えおき、さんざん稼がせたあげく、重い病気にかかったとなれば、 そのままにしていては失費も多いし、送り帰す身寄りもない者なので、結局このように 騙して船にのせ、川水に投げ込んで殺すのだそうだ。
 心根の卑しい者のすることとはいえ、あまりにも天を畏れない所業である。
 いずれ刑罰を免れないのではないか。

参考文献:
       「江戸から東京へ 第六巻」 矢田挿雲
       「江戸名所百景」       歌川広重
       「甲子夜話」          松浦静山

◆2004年2月13日
野閑人@週末寝物語2

<蕎麦の話>
 江戸っ子は蕎麦をよく食ったらしい。畢竟、安かったからである。蕎麦は甲州から江戸に入ってきたものらしいが、寛文年間(1661年~)から担い売りがあり、蒸し蕎麦で1杯6、7文であった。当初は蕎麦切りは蒸し蕎麦であったが、後に茹で蕎麦に変わっていった。現在も「もり」は蒸籠に乗ってくるが、冷たい蕎麦を蒸籠にのせて持ってくるのは元来おかしな話である。これは蒸し蕎麦の名残だそうだ。

 「もり」という言葉は天明(1781年~)頃から使われたらしい。「かけ」は当時はぶっかけと言ってつゆがだぶだぶとあって蕎麦の分量も多い。「かけ」はその分量から「馬方蕎麦」と呼ばれて、それを食う奴は侮蔑されて、「あいつは馬方蕎麦が似合う」などと罵られた。

 「もり」の汁は辛くてこれを「江戸汁」と言ったが、「かけ」の汁はそんなに辛くては食べられないので甘くして「甘汁」と呼んだ。当然前者が江戸前で、「もり」を「江戸汁」で食うのが気風が良いとされた。新吉原京町の三浦屋の遊女きちょうは蕎麦が好きで「甘汁は愚痴だ、蕎麦を食うのは江戸汁に限る」と言った話が伝わっている。

 よく二八蕎麦と言うが、一体、一八、二八、三八と言うのが蕎麦とうどん粉の配合割合だといった説がある。しかしこれは当時でも一方に生蕎麦とか手打ち蕎麦とかいって、100%蕎麦粉であることを呼び物にする売り方があり、もしうどん粉の分量を名称に表すとすればそれだけ蕎麦が悪いことになる。正味の少ないことを看板にするのはこれはおかしい。よって昔から、二八と言えば十六文、三八と言えば二十四文という風に蕎麦の代価を表すというのが正しい。

参考文献:
       「鳶魚江戸叢書第九巻」三田村鳶魚

◆2004年2月13日
野閑人@週末寝物語1

2日ばかりこつこつと調べながら少しづつ書いてみましたきに。冬夜の慰みに。

<江戸っ子と金>
 前にも書いたが、「江戸っ子」というものは後世で言うほど良いものではない。わずか三日間の祭り(神田、深川、等)に参加するため女房を新吉原に売り飛ばして一時の金を作り、それでも足りなくて借金をして、祭り衣装を調え、三が日の間、朝から晩まで江戸の町を練りまわり、さて祭りが終わったら、この晴れ姿を女房に見せてやりたいと最後に残った金で吉原へ女房を買いに行く。挙句に借金が返せず身ひとつで夜逃げしてしまう、なんて手合いがいたりした。

 江戸っ子という言葉が認識されだしたのは江戸時代も五分の四を過ぎた頃で文化文政期(1800年頃~)以後である。十一代将軍家斉(いえなり)の頃でこの頃何度か大々的に貨幣改鋳が行われ、いわゆる悪貨が市中にあふれ、インフレが進み、まあ言わば江戸時代のバブル期であった。ただし、文化的には江戸文化の最盛期でもあり、太田蜀山人、山東京伝、その他の才人たちが大いに活躍した時代であった。

 江戸っ子の居た地域というのは、いわゆる下町で、現在の下町より非常に狭い地域で、日本橋、神田、京橋、新橋といういわゆる城東地域であった。

 江戸っ子と呼ばれたのは最下層の細民で、江戸の町民でも、地主、家主、店持ち商人、店借り商人、商家奉公人等、比較的中・上層の町民は江戸っ子とは呼ばれなかったらしい。職業としては、魚河岸の労働者、船頭、棒手振り、仕事師(火消し人足)、職人、中間、等が主なものである。中には仕事もしない破落者(ならずもの)なんてのもいた。もちろん幼時より教育なんてものは一切受けてないから無学文盲の徒であった。

 人口で言えば化政期当時の江戸の人口は80万とも言われているが、武家、寺社等を除いた町奉行支配下の町人は50万とも見積もられている。この内約5%の2.5万人が、熊さん、八っつぁん、べらんめえの手合いだったらしい。

 当然みな裏店(裏長屋)住まいのその日暮らしの貧乏人で、いわゆる「宵越しの銭」は持ちたくても持てなかった。たとえば職人でも高級な部類であった大工の収入は、正月だとか節句だとか雨嵐の日を除いて1年間に294日働くとすると、1貫587匁6分の収入になり、それが夫婦に子供1人の暮らしだと1貫514匁くらいかかるので1年で73匁6分残ることになる。しかし家族が増えればとても暮らしが立たない。
 小商いをする棒手振り(振り売り)の場合は1日の売り上げを700文と見て1日の生活費用、店賃(家賃)、子供の小遣い、等で280文、翌日の仕入れ代金350文を、除けて残り70文を竹筒の貯金箱に入れる。大体100文で現在の金で2千円ぐらいか。

 「宵越しの銭は持たねえ」と江戸っ子が強がり出したのは、やはり化政期以降で、江戸後期になると物売りよりも、職人や仕事師や人夫のような労賃取りが多くなった。「稼ぎさえすれば金になる。腕から金が出る、夜が明ければ労銀が取れる。大風や大火事があれば賃金が3倍にも5倍にもなる。浮いた金が入ってくる。それに浮かされて、今日は今日はで日を送る。それがいつまでも続くように思っている。」(三田村鳶魚)という能天気な経済観念の江戸っ子気質が醸成された。江戸っ子から言えば、後家婆あか三ぴん士(さむれえ)のほかには貯金なんぞするやつはない。川柳に言う「江戸っ子の 生まれぞこない 金をため」という風になってしまった。金銭にきれいであるとか、流れ川で尻を洗ったようだということは、そうした欲から超然としていたわけではなく、ただうかうかとしていたのである。

参考文献:
       「鳶魚江戸叢書」三田村鳶魚著
       「江戸から東京へ」矢田挿雲著
       「資料館ノート」深川江戸資料館発行