Part2

大橋一章早稲田大学教授(36回)特別講演
「仏教伝来に見る日本人の特質」





講師紹介は同じ36回の中村さん




「大橋先生は青島で生まれ,今の四万十市に育ち,小学校では神童と言われていましたが,
みんなが土佐中で経験したように入学後は普通の生徒で,...」
もっとずばっと言っていましたが,忘れてしまいました.大橋先生も苦笑い
「大橋先生は,土佐っぽらしく,権威に挑み,少数説を唱え,和辻哲郎の説にもに真っ向から挑まれています」




以降,HP編集人のメモから大橋先生の講演を再現します.

早稲田での授業では授業の始めに出身高を書かせています.
今年は珍しく土佐高出身がおりました.
それに金沢泉丘高の出身の女生徒がいて,
『50年以上前,あなたの学校にわたしの母校・土佐高は甲子園でボロ勝ちした』と言ってしまいました
参考,「土佐高校甲子園全戦績」,55回生森岡さん作成のページ

大学に入ったときには西洋美術をやろうと考えていたが,
助手さんに「西洋美術をやろうと思う」言ったところ,
「バカ,日本一になってもヨーロッパの人間は誰も評価しないぞ」と言われ,
仏教美術を勉強することにしました.


三河島事故(昭和37年5月3日)があったときで,いつだったかをはっきり覚えていますが,
教授に相談したところ,「日本書紀を読め,欽明天皇13年から読め」と言われ,
渋谷の大盛堂に日本書紀を買いに行ったが,売ってないのですよ.
「東京で一番大きな本屋だろう何でないのだ」と言ったがありませんでした.
カードを調べ,藩校のようで名前の良かった吉川弘文館の日本国史大系の日本書紀を注文しました.
5月の終わりに本が届きました.ところが全文漢文.
土佐中では中1から漢文を教わりました.野球部の富田先生に.
漢和辞典を引きながら1年かかって読みました.
日本書紀は大化の改新などを書き連ねた年表のようなもので,
欽明天皇13年というのは,仏教が百済から日本に伝わった時です

仏教はインドのものだが,日本に伝わった仏教は直接インドのものでない.むしろ,中国仏教といった方が良い.
紀元前400年頃,インドで仏教ができた.その頃,たくさんの人が修業で山中に入った.
山にはいるということは家族をも捨てると言うことですね.その中でただ一人山から下りてきたのが釈迦.
インド仏教が中国に到達したのは,はっきり言うのは難しいが,約2000年前だろう.
中原で古代文明は栄えていて,中国で仏教はなかなか盛んにならなかった.
異文化を自分たちの文化文明に包み込み,仏教経典の翻訳がなされた.漢訳法典ができあがった.
翻訳というのは自分たちの文字がなければできない.中国語を知らなければ教典を読めない.
日本では明治にならないと日本語訳はできなかった.

中国語に近い音読から始め,山,川など意味が分かったものから日本語読みをしていった.
遣隋使,遣唐使が派遣され,奈良時代のおわりになると,読めなくとも意味が通じるようになった.
一二や上中下と返り点や送りがなを付けるようになった.
送りがなは最初は小さな漢字で書いていたが,漢字が省略されカタカナになり,平安時代にはカタカナとひらがなができてきた

わかるようになると中国には行かなくなった.
音読では意味が通じないので,暗記をするようになった.
暗記をするためには調子よく読まねばならず.皆で読むとハモって,声明(しょうみょう)もでてきた.
お経の意味がわからなく読んでいます.

寺は坊さんが住んでいるところと思っていますよね.
司農寺は寺だと思っていたが,どうも違うようだと辞書を引きました.
高校の頃,国語の片岡先生に辞書を引けと言われましたよね.
司農寺は収穫を調べ来年の年貢を決める役所だったんです.寺は意味は役所だったのです.司も役所ですが.
外国から使節を迎えるために鴻臚寺という役所を作ったのです.
そこに外国からの僧侶が宿泊するようになり,いつの間にか寺が「仏教寺院」となったのです

法隆寺などの柱は直径が50−60cmあり,自分で立つことができる.なぜあのように大きいのか.
瓦で屋根が重いのです.瓦を発明したのは漢民族ですが,薬師寺講堂の瓦は棟梁に聞いたところ70000枚だそうです.
瓦だけで350トン,それを固める粘土が100トンから200トンあるでしょう.それを支えるためにすべてが大きくなります.
その柱を支える礎石は,地下1−2mから粘土と砂を交互に敷き詰める版築(はんちく)という工法で支えられます.
版築は中国の万里の長城を作った技術です.
仏教寺院は建物は朱で,窓は緑で,銅像は金メッキ.極彩色か,そうでなければ金ピカです.
中国人が考えた仏教寺院です.3,4世紀にできあがっています.
それを朝鮮の百済や日本の倭の五王の使いが中国を訪れています.
朝鮮にはその中国寺院が導入されましたが,日本は導入しなかった.文字を知らず導入できなかった.
百済は読めたのです.漢の植民地になっていて漢字が読めたのです.
朝鮮半島では漢字が入ってきていたのです.高句麗の好太王は立派な碑文を作っています.
日本は中国文明を読みこなすレベルでなかったのです.
百済が日本に仏教を教えました.まずは系統的に中国語を教えました.五経博士を5年おきに30年も送りました.
それでやっと仏教が日本に入ってきました.それが欽明天皇13年です.
仏教は知的レベルの高い宗教.宗教と言うより文明です.
一度伝わると仏教寺院もできました.寺を造る造寺工,仏像を造仏工もやってきました.
法隆寺の前の最初のお寺が飛鳥寺です.百済に教わって飛鳥寺を作っている最中に蘇我馬子や聖徳太子は遣隋使を送ったのです.
本物は百済でなく中国だとわかると,さっさと鞍替えしたのです.留学生を沢山派遣しています.
そういえば,14,15歳の尼さんを百済に送っています.
明治4年に津田梅子等が岩倉使節団としてアメリカに派遣されていますが,同じですね.
low teenは留学に成功していたのですが,high teenは耐えられないのですねえ.

本物は中国だと見抜く力があったのです.また追いついたと思ったら,留学生も送らない.
幕末にヨーロッパに派遣された侍が,エジプトのピラミッドの前で撮った写真が残っていますが,
彼らは「オランダは遅れている」「イタリアもたいしたことがない」「ロシアはヨーロッパではない」などと
オランダやロシアが聞いたら怒るようなことを平気で書いています.本質を見抜く力があったのですね.

日本人は自分たちのものにする方法に優れているのです.
法隆寺の秘仏,久世観音像,釈迦三尊像は造形として大変美しい.
しかし,それを超える新しいものは出てきません.

追いつき追い越したものは奈良の大仏殿.巨大構造物というより超巨大構造物です.
1m20−30cmの柱が86本も使われています.すべて人力で作られています.
どれだけの犠牲者がでたことでしょう.権力者がやると犠牲者が出ようと関わりなくやってしまうのです.
間口は90m,奥行き60m,高さ50m,大仏は16m.中国ではできなかった大きさの大仏です.
漢民族が発明した中国仏教を150年かけてまねて追い越したのです.
明治維新の文明開化もおなじですね.

わたしの専門は美術です.彫刻,仏教美術を学んでいると分かるのですが,
形造る,色を付けるというのは,高度な知的レベルを要求されます.賢くなって形を見,比較ができるのです.
高校時代,高崎先生は「デッサンはいらない」と言われましたが,先生が芸大,当時の美術学校を受験するときには
デッサンの勉強をされているのです.デッサンの勉強は知的レベルの高い行為です.
仏教伝来が日本人の知的レベルを高めたのです.

日本人は宗教を好きでないのでしょう.そういう国民性でしょう.
仏教寺院は,柱が朱,窓が緑,仏像は金色.鎌倉時代までは寺院を修理していました.
それ以後,修理をしなくなって古色蒼然となったのです.
それを和辻哲郎はそれを「日本のわび,さび」と言ったのですが,元は日本人の怠慢です.
「わびしい」は欲しいものが手に入らないということで「良い」ことではありません.
和辻はそこに日本人の美学があると言ったのですが,4−500年日本人にしみついた貧乏人の美学ですよ.



司会「時間はないのですが,マイナーな分野で質問できる機会も少ないでしょうから,ご質問をどうぞ」
会場から2人が質問されました.
「思想としての仏教か,文明か」
「天皇と仏教の関係は」