筆山編集長の週末寝物語

◆野閑人@週末寝物語27

けふは梅雨らしく一日雨だった。夾竹桃の真っ赤な花が
咲き誇って、雨に打たれていた。

<お大尽の話その三>

・札差

 元禄(1688〜)から享保(1716〜)期にかけて目立ってお大尽ぶりを発揮したのは材木商であったが、七、八十年後の安永(1772〜)天明(1781〜)頃に吉原を賑わした代表選手は浅草蔵前の札差(ふださし)であった。

 札差とは旗本の蔵米の受取から売買までを請負う商人のことである。千石以下で、知行地を持たない蔵米取り(俵取り)の旗本は、春夏秋の三期に分けて、幕府の浅草御蔵より扶持米を給された。初めは旗本の用人が自分で出頭して禄米を受け取ったが、それらの用人が休憩する場所として、御蔵前に葦簾張り(よしずばり)の腰掛茶屋が並んだのが、札差商人の濫觴(らんしょう)である。休憩所は御蔵宿と称された。禄米の受取は大変な手数と時間がかかったので、やがてその仕事を御蔵宿の主人に委託して帰るようになり、いつの間にか蔵宿は禄米受取売買代理人が本業となっていった。

 その手数料(札差料と払米口銭)は百俵の取扱いにつき三分(四分の三両)であった。ぐっと時代は下るが、元治元年(1864)の記録によると、その年の蔵前札差百九軒の総取扱高は百五十三万六千七百三十余俵で、計算すると、手数料は百十五万二千五百四十六両余となる。札差の数は、上限百九人から九十五人まで時により変動があったが、百軒で概算すると、一軒あたり年間一万両以上の手数料収入になる。
 これだけでも豪商といってよいが、更に、札差の本業は、禄米受取売買代理人業から、豊かな資金を生かして金融業へと移っていって、更に豪富となっていった。武士は口では『武士は食わねど高楊枝』といっても、禄米が降りるまで待てず、札差に泣きついて禄米を抵当(かた)に借金するものが多かった。その貸金の利子は、大体江戸時代を通じて月一割五分という高利であった。
 旗本の財政が年々逼迫するのに反し、百軒内外の札差仲間は年々身代が太った。札差は、江戸の官僚(旗本)の死命を制するほどの勢力を持つに至っている。蔵前にはこれら札差業者の広壮な邸宅が軒を連ねていた。

 札差業者の中には町奴(まちやっこ)のように豪侠な者があった。この暴利の結果としての贅沢が、蔵前式の男伊達(おとこだて)を生み、一般の町人と違った気分を持つようになった。
 『贅沢に男を立てるといえば、偽侠らしくも聞えるが、必ず虚偽なわけでもない。彼等には非常な驕気と衒気があって、二気の底には、俺こそ江戸の大賈(たいか−大商人)だ、という信念を宿している。それ故に、面目ということも考える。要するに「気前を見せる」というのが、蔵前式男伊達の本領である。(中略)ただこれ気前を見せて、快を八百八町に取らんとしたのである。』(三田村鳶魚)。

 安永(1772〜)から寛政(1789〜)の初めにかけて、札差仲間から、大口屋暁雨(ぎょうう)、そのほか十八大通(だいつう)と称する頽廃的反抗児を生じた。
 『彼等は、三尺帯を締め、冷飯草履(ひやめしぞうり)をはき、料理屋などを荒らしまわる素寒貧(すかんぴん)の自称侠客とは違い、恒産があり、礼容があり、武士階級の経済的弱点を握っていながら、めったにそんな顔せず、そんな顔する時は、命を投げ出してグウの音も出ないほど武士をやっつけた。』(矢田挿雲)。
 この頃に書かれた書物に『御蔵前馬鹿物語』というのがあり、札差の行状を書き留めている。また『甲子夜話』にも一部書き残されている。

 利倉屋庄左衛門という札差が、銀のはりがね元結(もっとい)で蔵前本田に髪を結い、鮫鞘(さめざや)の一刀を腰に差し、両手を振って下谷広徳寺前を通りかかると、髪結床(かみゆいどこ)に若い者数人が遊んでいたが、庄左衛門の髪の元結、手を振って歩く姿を見て、あざ笑った。庄左衛門は振り返って『にっくきやつら、何を笑う』と髪結床へ飛び込み、上げ板を取り、さんざんに暴れて、髪結床をみじんに打ち壊した。そのあと懐中より金子二十両出して、この金で修理せよと髪結の親方に差し出す。親方、金を受け取り、平謝りに謝って、その場で済まして帰ったという。


・大口屋暁雨

 大口屋暁雨(ぎょうう)は本名を大口屋治兵衛という。暁雨は俳号である。安永(1772〜)の頃、蔵前の通人の筆頭格で名物男であった。常に、黒小袖の紋付を着流し、鮫鞘の一刀を腰に差し、一ツ印籠、日和下駄(ひよりげた)履きという芝居の助六そっくりの風装(なり)をして、吉原に繰り込み、悦に入っていた。芝居の助六を丸呑みにして、御蔵前の助六といわれるのを面目にした。暁雨がそのいでたちで吉原へ繰り込むと、その大黒の紋を見て、吉原の者共は『そりゃ、福の神様のお入り。』と沸き立ったという。
 暁雨は、二十五万両の身代を弟に譲り、自分は五万両(現在の金で四十億円ぐらいか)の遊蕩費をもって八幡社前に隠居した。ここにいて別になすこともなく、吉原通いに精励した。なすこともなく精励しようとするのだから、勢い喧嘩に首を突っ込んだり、衣装持ち物に凝ったりしなければ日が暮れなかった。
 猪牙舟(ちょきぶね)の船頭を廃業させて子分にし、喧嘩を探しまわっては、即座の名文句で仲裁するのを趣味にした。
 明治の才人福地桜痴が書いた歌舞伎脚本に暁雨の科白が出てくるが、桜痴は何とも類型的な江戸弁の啖呵を暁雨に切らせている。
 『男を磨くこの暁雨、弱えものをば助くる代り、強えが自慢で威張り散らせば、町奴でも侍でも、只は通さぬ江戸っ子気性、張って張って張り通す男の中の男一匹(中略)、エ、誰だと思う、一本立ちの男伊達、蔵前の暁雨だわいエエ。』
 札差としては有名な男であるが、これといって大向こうを唸らせるような事績は伝わっていない。紀文や奈良茂の事績に比べれば、時代が下る分、都会的で小ぶりな印象が強い。


・夏目成美

 夏目成美は暁雨と同時代に生きた蔵前の札差であるが、暁雨とは正反対の性格で、馬鹿遊びなどにうつつを抜かさず、家業に精励しながら、趣味の俳諧で一家をなし、後世に名を残した。
 十七歳で家督を相続し、五代目井筒屋八郎右衛門を称した。随斎、不随斉、など多数の別号を持つ。俳諧は父の手ほどき以外は独学だったという。家業のかたわら俳諧を続け、江戸の四大家の一人と称され、一目置かれる存在であった。
 持病の猛烈な痛風に悩み、三十代で弟に家督を譲ったが、彼が早世したため、痛む体を押して再び家業に復した。
 小林一茶の良き庇護者であり、何くれとなく面倒をみたという。書画などもよくした。一茶以外にも、富裕な資金をもって、貧乏俳人たちを救済するなど、当時の俳壇に資金面 で多大な貢献をした。


参考文献:
    「鳶魚江戸叢書 第二十四巻」三田村鳶魚
    「江戸から東京へ 第二巻」矢田挿雲


◆野閑人@週末寝物語26

梅雨の頃なのにけふは湿度低くさわやかな一日でした。
隣の家の庭の紫陽花が盛りになっている

<お大尽の話その二>

・奈良茂−奈良屋茂左衛門

 宝永(1704〜)正徳(1711〜)期に吉原で紀伊国屋文左衛門と並び競って、その豪遊ぶりに名を残したお大尽に奈良屋茂左衛門がある。奈良茂も紀文と同じく、深川の材木商であり、言い伝えによると奈良茂は六代目まで分かっているらしいが、初代から三代までは貧乏人であった。三代目は霊巌町の裏店に住まい、材木の車力をしていたという。
 その子の四代目が親の魯鈍に似ず天性利発な子であったが、近所の材木問屋に勤めて、商売の道にも賢く、一通りの駆引きを呑みこんだので、二十八歳で独立し、竹や丸太を少しばかり仕入れて、小さな商売を始めた。

 折柄、幕府では、大地震で壊れた日光東照宮の修繕計画がもちあがり、そのため檜の節なし物が大量に必要とされた。当時木曽檜の上物は茅場町の柏木屋伝右衛門の独占であり、伝右衛門は懐手で檜の相場が上がるのを待っていた。案の定、一本の取引も無いのに、思惑で檜の値段がどんどん上がっていった。
 いよいよ、普請請負の入札があり、零細な奈良茂も応札して、無謀にも相場の半額の値段で落札した。同業者は皆、肝をつぶして、駆け出しの小僧がどうやって御用をしおおせるのだろうと、固唾を呑んで見守った。
 落札の翌日、奈良茂は裃(かみしも)を着て柏木屋に行き、『日光御普請を承ったので、持ち合せの檜材を相当の値段で出して貰いたい。支払いは請負下げ金が入った後。』としゃあしゃあと申し入れた。当然伝右衛門は手代をして断らせた。その時の断わりの口上が『ここには日光の御用に立つような良材は無い』であった。
 してやったりとほくそえんだ奈良茂は、翌日町奉行宛嘆願書を差し出し『木曽檜の上物は柏木屋しか持ち合せてないのに、柏木屋は値段を吊り上げるため、持ち合わせが無いと申しております。』と訴えた。町奉行はただちに柏木屋を呼び出し、奈良茂と対決させた。柏木屋は『持合せさえあれば、何で否みましょう。全くのところ、檜の入船なく、御用向きほどは持合せておりませぬ』と答えた。奈良茂は『私、多年木場に育ち、その折々の木場の材木の量は心得ておりますれば、何卒御組中ご同道下されまして、実地検分お願い致します。私がご案内いたします。』と願い出た。そこで町奉行は奈良茂に同心衆を付けて木場へ臨検させた。奈良茂は木場の隅々まで案内して、檜材へ片っ端から幕府御用の極印を打った。その量は今回の御用を弁じてなお余りあった。そしてそれはやはり全て柏木屋の貯蔵木であった。
 同心衆は戻って、町奉行にすべて報告した。柏木屋伝右衛門と手代三人は不届きにつき、入牢仰せ付けられ、官命により、檜材は奈良茂に引き継がされた。柏木屋は欠所(財産没収)の上、伊豆新島へ遠島になった。
 奈良茂はこの日光御普請材木御用で大成金になった。柏木屋に払うべき材木代も、家族流離のドサクサで、猫ババを決め、御用に供した檜の残木、時価にして二万両ほどのものが、うやむやのうちに奈良茂のものになった。
 柏木屋伝右衛門は七年後に赦されて深川に戻ってきた。我家のあとには草が生え、虫が鳴いている。それにひきかえ奈良茂の家運は朝日の昇る勢いであった。伝右衛門は、天を恨み、世を怨み、絶食して憤死した。

 その後、奈良茂はますます身代を太らせ、五十六歳で長子の五代目茂左衛門に家屋敷と金四十万両を譲り、隠居してのち六十歳で死んだ。
 新吉原で紀文と大尽遊びを競った奈良茂は、この四代目だという説と五代目だという説があってはっきりしないが、両方とも豪遊をしたので、その事績は混同されている。五代目奈良茂は生まれながらの豪富であり、四代目ほど悪辣でなかったし、悪辣である必要もなかった。どちらかの判別に苦しむので、以下は四代目か五代目かを余り区別せず書かざるを得ない。

 ある時奈良茂は、吉原仲之町の茶屋に幇間(たいこ)末社(まっしゃ)を集め、雪見の宴を張った。それが紀文の癪にさわり、奈良茂の遊んでいる向かいの茶屋に押しあがり、三百両ほどの小判、小粒金を往来の雪に向かってあられの如く撒き散らした。付近の者共はそれを拾おうと押重なって先を争い、せっかくの雪を踏み消してしまった。奈良茂は大いに悔しがり、紀文は溜飲を下げたとある。
 奈良茂取り巻きの幇間二朱判吉兵衛が、揚屋で遊んで疲れきって寝ている奈良茂をゆりおこし、十両やるから寝かせてくれといわれ、合点せず、二十両やろうといわれ、まだ承知せず、三十両になって、ようやく許してあげましょうと、ねぼけ大尽から三十両まき上げた。
 ある時、奈良茂は吉原で、遊び友達の席へ、蕎麦箱ただ二つ(蕎麦二人前)を遣い物(贈り物)にした。客は『奈良茂に似合わぬケチなことよ』と陰口をききながら、近所の蕎麦屋へ追加の蕎麦を注文した。使いの者が帰ってきて、『今日は奈良茂大尽に買い切られて、店は休みじゃと申します』と報告した。さてはと念のため、吉原五町の蕎麦屋を一軒残らず聞かせたら、全部奈良茂に買い切られてあった。更に吉原五町だけでなく、山谷、浅草田町等、界隈一円の蕎麦屋がすべて奈良茂に買いきられていた。たった二枚の蕎麦のために、何千の蕎麦が買い切られていて、一同舌を巻いたという。

 享保十年(1725)春、五代目奈良茂は取り巻きを大勢引きつれ、京に上り、七ヶ月ばかり上方の花柳界を荒らしたが、江戸へ帰る途中で病を得、木場の家に帰り着くと、間もなく三十二歳で没した。子がなく、跡を弟が継ぎ、六代目奈良屋茂左衛門となった。
 六代目奈良茂は奈良屋を継ぐ前は、分家して手堅い商売を営んでいたが、本家を継ぐや、ガラリと人が変わったように道楽者になった。
 役者、芸人の取り巻きの仰山なことは兄茂左衛門に劣らなかった。そうして、見栄を張ることにいたっては、むしろ兄茂左衛門をしのいだという。ある月見の宴に、十五日の昼夜ぶっ通しで飲めや唄えやで、その費用が五百両(現在の金で四千万円ぐらいか)かかったという。

 このような豪奢を尽くす一方で、紀文と同じく材木相場の下落に見舞われ、商売の手違いや、悪番頭の使い込みなどで身代はドカドカと下り坂になり、箱崎町の屋敷を一万五千両の抵当に入れ、三井越後屋から金を借りた。奈良茂は、七日の間、平井の聖天へ断食参籠して、家運の再興を祈ったけれど、傾いた家運は回復しなかった。抵当の家屋敷は三井越後屋の有に帰した。こうなると、取り巻きも寄り付かなくなった。今まで買いだめした諸道具を段々と売りに出した。奈良茂自身が一つずつ風呂敷に包んで売りに行ったという。しかしさすがに奈良茂、大したお宝を沢山持っていて、『古法眼唐子遊び』の屏風一双が千百両で売れたりしたという。
 しかし売り食いの早さ。さしもの奈良屋の家も六代目に滅びた。霊巌寺雄松院にあった墓も、いつともなしに無縁になったという。
 紀文の豪遊はいささか成金然としていて下卑たところがあったが、奈良茂のは高雅な品位があったと言われている。


参考文献:
    『江戸から東京へ 第六、七巻』矢田挿雲
    『鳶魚江戸叢書 第二十四巻』三田村鳶魚
    『豪商列伝』宮本又次


◆野閑人@週末寝物語25

けふは気温はさほどでもないが、湿度が高くてだるかった。
しかし風があり、初夏のさわやかさを感じないでもなかった。


<お大尽の話その一>

 『お大尽』というのは『金を大づかみにしてばら撒く』という意味が入っている。まさに江戸時代の豪商通人を言い表すのにぴったりの言葉である。
 大尽の本質は豪富と浪費である。衣食住の豪奢と奔放放縦な肉欲を人生最高の栄華栄耀とし、これを金力によって捕らえようとする生活態度である。ロマンチックなものは何も無くて、現実的・唯物的な商人の生活から割り出された人間観である。
 江戸時代の豪商すべてが『お大尽』というわけではないのは言うまでもない。どちらかというと一代で豪富をなした冒険的商人がお大尽になる場合が多かった。


・紀文−紀伊国屋文左衛門−

 紀伊国屋文左衛門は伝説が多く、何が事実なのか、拠るべき記録がなくて、史家も、ある程度伝説に頼りながら、事実らしいことを記述するよりほか仕方がないらしい。
 紀文の前半生はほとんど不明である。紀州の人で、紀伊の温州蜜柑を江戸に運んだことが財をなすきっかけになったという話は本当らしい。
 寛文五年(1665)紀州熊野に生まれ、幼名を文平といった。家は貧乏であった。文平十八歳のとき、その年は台風の当り年で、蜜柑の収穫期に暴風雨が続き、蜜柑船が出せず、江戸の蜜柑の相場が暴騰していた。これに目をつけた文平は、持前の才覚と機略で、ある紀州の神官から金を借り、二百五十石積みの大船を借りて、一艘の蜜柑船を仕立てた。命知らずの船頭十余名に、通常の三倍の賃金を約束して、自分は死装束を着けて船に乗り込み、荒れ狂う追風に帆を上げて、紀州を出帆した。当時の航海術をもってしては、紀州より江戸への直行は相当難行であった。しかも暴風雨の中の出帆である。海は名にしおう熊野灘、それに続いて七十五里の遠州灘を昼夜兼行で乗り切り、品川沖に錨を下ろしたときは、さすがの文平もうれし涙を流した。江戸では蜜柑の最需要期に蜜柑が入らず、問屋も困っていた時であり、高値で全て売り捌けた。すべての費用を差し引いて五万金儲けたという。帰りの船に塩鮭十万尾を積み込んで帰り、大成金になった。この壮挙が唄になって、後々まで残った。

 沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀の国蜜柑船

 その後家族一同を引き連れ、江戸へ移住し、本材木町一円を自分の地所として、海賊橋際に材木蔵を建てて紀伊国屋文左衛門の表札をかけた。紀文が蜜柑船の船主から一変して材木屋となったのは、当時、将軍綱吉が建築好きで、盛んに寺院殿舎の造営をやったのと、江戸は火事の本場で、江戸において何よりも有利な商売は材木屋であるとさとったからである。
 紀文は、どういう手づるがあったか知らぬが、伊達家の材木御用達になった。それからいつの間にか将軍家の要職に当たる人々に接近し、老中首座柳沢吉保および勘定奉行荻原重秀の後援を受けることに成功した。幕府の種々の造営の材木御用をうけたまわるようになった。特に元禄十年(1697)紀文三十三歳の時、上野寛永寺の根本中堂造営の材木御用を独占し、その時のもうけは金五十万両(今の金で四百億円ぐらいか)に余ったというからすごい。要するに紀文は一代の政商であった。

 紀文は豪侠な性格で、周囲に不逞無頼の徒を近づけ、多くの食客を飼っていた。その取巻きの中には、英一蝶、宝井其角などの名士もいた。紀文はそれらの取巻きを連れて吉原へ乗り込み、いわゆる「お大尽遊び」をやり、廓内で金銀を湯水のように撒き散らした。
 生涯に吉原大門を四度閉めさせた(吉原の里を独りで借り切ること)という話がある。しかしこれは作り話である。吉原は公許の遊郭であり、いくら金を積んでも、幕府の法制上、借り切って大門を閉めさせるというようなことは出来ないことを三田村鳶魚翁が考証している。
 吉原揚屋町の泉屋で、有名な「小粒金の豆まき」をやったり、仲之町で立小便をして、小便の泡の中に小粒金を投げて「望みの者にやる」というようないたずらをしたり、隅田川を竜田川に見立てて、朱塗りの盃を何千も流したりした。ある時、悪友が京町藤屋で遊んでいるのを聞きつけ贈り物をした。それは小さな蒔絵の小筥(こばこ)で、悪友は「大したもんじゃないな」と思いながら何気なく小筥のふたを取ってみると、中から数百の豆ガニが這い出して座敷の四方へ走り出した。アレアレと居合わせた者全員が大騒ぎでその豆ガニをつかまえた。そしてよく見ると、ケシ粒みたいな豆ガニの背にいちいち金泥で、当時名うての遊女とそのなじみ客の紋が描いてあったという。
 紀文の吉原における豪遊は一代のお大尽ぶりをうたわれているが、もちろん幕府の大官・役人の接待攻勢にも吉原を大いに利用したことだろう。また、初がつおを買い占めて、江戸に一本も見えぬようにして、大巴屋で料理して自分と取巻きだけで食ったという話も残っている。

 紀文はその儲けぶりや豪遊よりも零落ぶりの方がもっと有名かもしれない。またなかなか味のある零落ぶりであったと筆者は思う。
 紀文はその過度の豪遊にもよるだろうが、前後十回にのぼる火災で貯蔵材木が被害を受けたこと、また使用人に人物を得なかったこと、宝永五年(1708)紀文四十四歳の時、幕府の銭の鋳造を請負ったが、その新銭が世に通用せず、幕府は一年足らずでその通用を停止したため、請負でやっていた紀文は大損をこうむったこと等により、家運が衰微した。宝永六年(1709)将軍綱吉が死去し、紀文の後援者であった柳沢吉保も荻原重秀も退官してしまう。幕府の普請事業は激減し、材木相場が下がって、材木屋はもうかる商売ではなくなってしまって、ますます紀文の身代を衰微させた。
 紀文は本材木町の大邸宅を売り払って、一時、浅草寺中の慈昌院の地内に移転し、更に深川八幡の鳥居前の小さな住居に移り、昔にかわる質素な晩年を送った。しかし『貧乏はしても紀文大尽』と謳われたい気があって、相変わらず昔の取巻きを集め、千山の雅号で俳諧茶事に没頭し、米の値段も知らないことを自慢にした。
 享保三年(1718)五十四歳で没したと言う説と、享保十九年(1735)に没したと言う説もあり、はっきりしないが、深川八幡前の住居の天井を張るのに、板天井ではなく、「落ちぶれた」ことを殊更に強調して、紙天井にしていたが、それに、日本全国の紙を集め、同じ産地の紙を二枚と用いてなかったということを、没後数十年目にある表具師が発見した。『さすがは紀文千山、落ちぶれてもこのたしなみ』と紀文後日談に一花咲かせた。
 一説に、紀文は深川八幡前の陋居に移転した時、なお四万両を残しており、それを、子孫に美田を残さずという信念で、死ぬまでに使い切ってしまったという話もある。
 なお、深川八幡(富岡八幡宮)の「総金張りの大神輿」は全盛時代の紀文が寄贈したもので、長い間、深川八幡祭りの象徴であったが、惜しくも関東大震災で焼失してしまった。

参考文献:
    『江戸から東京へ 第一、六、七巻』矢田挿雲
    『鳶魚江戸叢書 第九巻』三田村鳶魚
    『豪商列伝』宮本又次

◆野閑人@週末寝物語24

<芝居の話その四>

・河竹黙阿弥

 歌舞伎狂言作者として江戸時代に輩出した人材には、並木五瓶、鶴屋南北、他、錚々たる人物がいるが、幕末の芝居の最盛期に活躍した二世河竹新七こと即ち河竹黙阿弥は、歌舞伎狂言作者の中の最後の輝ける巨星であった。
 『白浪物』または『黙阿弥物』と称する、多彩で、因果が複雑に絡み合って、凄艶(せいえん)で、悪美を尽くした芝居の筋の中に、鳶(とび)や、芸妓や、初鰹や、神田祭などと結びついた江戸っ子特有の生活情調をたくみに織り込んで、これに広重の風景画的背景をあしらい、見物をして、江戸っ子の故郷そのものの感を抱かしめたのは、なんといっても黙阿弥の功績である。大阪人が『近松物』の芝居のうちに故郷を感ずるように、幕末から明治の江戸っ子は『黙阿弥物』の芝居のうちに我が祖先と故郷を感じた。黙阿弥劇に登場する実在した、あるいは創作された人物像(キャラクター)は、江戸っ子に非常に強い共感をもって迎えられた。お嬢吉三・三人吉三、弁天小僧・白浪五人男、鼠小僧、河内山宗俊、天一坊、等々。
 まずは、黙阿弥の創作した江戸情緒たっぷりの、有名な科白(せりふ)を聞いてみよう(ここでは読むしか仕方がないが)。 『三人吉三廓初買(さんにんきちざくるわのはつがい)』より、大川端庚申塚の場で、大川の「石垣波の蹴返し」を背景に、目のさめるようなお嬢吉三が現れて、吐く科白。

 『月も朧(おぼろ)に白魚の、篝(かがり)も霞む春の空、冷てえ風も微酔(ほろよい)に、心持よくうかうかと、浮れ烏(からす)のただ一羽、塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹(さお)の雫(しずく)か濡れ手で粟、思いがけなく手に入る百両、ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹(よたか)は厄落とし、豆沢山に一文の、銭と違って金包み、こいつぁ春から縁起がいいわえ』

 『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』より、浜松屋の場で、弁天小僧の口上。

 『知らざあ言って聞かせやしょう、浜の真砂(まさご)と五右衛門が、歌に残せし盗人(ぬすっと)の、種は尽きねえ七里ケ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵、江戸の百味講(ひゃくみ)の蒔銭(まきせん)を、あてに小皿の一文子(もんこ)、百が二百と賽銭の、くすね銭せえ段々に、悪事はのぼる上(かみ)の宮、岩本院で講中の、枕探しも度重なり、お手長講(てながこう)と札つきに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局(つつもたせ)、そこやかしこの寺島で、小耳に聴いた音羽屋の、似ぬ声色でこゆすりかたり、弁天小僧菊之助たあ、俺のこったあ』

 黙阿弥の白浪物の大胆不敵で美しい科白。その芝居の筋は、お上の目を逃れるために、勧善懲悪の体裁はとっているが、その実、最後の幕のちょっと前までは、常に悪人が善人を懲らし、到底善人の言い得ないほどのキビキビした啖呵、人生観を、悪人の口から吐かせるような仕組みにし、長い間、武士階級の圧迫に苦しんできた江戸っ子の溜飲を下げさせた。
 河竹黙阿弥は、文化十三年(1816)日本橋式部小路の質屋に生まれ、本名を吉村新七、幼名芳三郎と呼んだ。幼少から絵草紙と芝居が大好きであった。早熟で、ごく若い頃に遊蕩の限りを尽くして十四歳で父に勘当されている。二十歳で五世鶴屋南北の門に入り、天保の末頃、二世河竹新七の名を襲って、河原崎座の立作者となった。明治十七年、劇界を引退し、明治二十六年、七十八の高齢をもって、本所南二葉町の自宅に息をひきとるまで、江戸から明治にかけて、黙阿弥が残した多数の演劇脚本は、それを演ずる数々の名優とともに、江戸っ子大多数の精神上の糧(かて)であった。
 黙阿弥作品は総数で360篇を数え、最大の理解者であり支援者である坪内逍遙をして「江戸演劇の大問屋」といわしめた程であった。現在でも上演頻度が高く、その数は50篇を越えている。
 しかし、黙阿弥の晩年は不遇と言ってよく、寂しい余生であった。西洋新知識を身につけた学者等により、明治十五六年頃から始まった国劇排斥運動の矢面に立たされ、正史正学を持たない黙阿弥は、満身創痍となって、同十七年、敢えて論ぜず、敢えて争わず、劇界から引退した。『敢えて論ぜず、敢えて争わず』で『黙阿弥』と称した。黙阿弥は最後まで不平を漏らさず、あれほどの仕事に対し、謙虚な態度を守り通した。
 この国劇排斥運動に対して敢然と異論を唱え、黙阿弥を強く擁護したのが、早稲田の英文学の教授で、わが国へのシェークスピアの紹介者でもある坪内逍遥である。逍遥は「読売新聞」に、黙阿弥を擁護する一連の評論を掲載し(明治十九年 読売新聞−「河竹黙阿弥翁に告ぐ」等)、黙阿弥のことを、『明治の近松・当今のシェイクスピア』とまで賞して激励している。逍遙は、黙阿弥の謹直堅実な人柄に感服する一方、黙阿弥の方も、43歳も年下の逍遙を「先生」と呼んで尊敬した。
 逍遙と黙阿弥家との親交は、黙阿弥亡き後も続き、逍遥門下生の市村繁俊を黙阿弥の娘いとの養子にして河竹家の存続を図るなどの後援を惜しまなかった。黙阿弥の養孫、河竹(市村)繁俊博士は演劇研究の大家として、早稲田の教授を長く勤めた。その子の河竹登志夫氏も、早稲田の文学部教授を勤め、専門は演劇研究だったが、この方、経歴が面白くて、最初は純粋理論にあこがれて、東大物理学科に入学し、理論物理を専攻して、小平邦彦助教授(フィールズ賞)の研究助手をしていた。その後、早稲田の文学部に入学しなおして、父上の後を継いで演劇の学術研究を行った。登志夫氏の卒論は、『演劇における場の理論序説』というタイトルだったそうだ。このタイトルだけ見て、筆者は思わず微笑んだのだが、失礼だったろうか。

参考文献:
    『鳶魚江戸叢書 第二十九巻』 三田村鳶魚
    『江戸から東京へ 第三巻』 矢田挿雲

◆野閑人@週末寝物語23

けふは台風一過。午後から晴れて暑かった。

<芝居の話その三>

 これは篠田鉱造という明治のジャーナリストが明治30年前後に、維新前から生き抜いてきて、当時東京のどこの家庭にも居た古老を訪ねて、江戸・幕末体験談を聞き出し、「幕末百話」という本にまとめたものからの引用である。幕末維新の体験を庶民が語る実話集であり、江戸庶民の語り言葉をそのまま伝えている。その中に幕末の名女形三代目沢村田之助の実話があり、芝居話の関連として、それをそのまま引用してみる。

・近世名優病気の田之助

◆どなたも御存知
 三世沢村田之助、これは五世宗十郎の次男でして、幼名由次郎、安政六年正月に田之助と改名、曙山(しょざん)といいました。どなたも御存知の通り、終はダッソで手足も無くなりましたが、近世の女形で名人でありました。妙な事から私は田之さんの病中を看護したので、巨細(こさい)の事まで存じて居りますが、病気になってから、最後まで申上げましょう。
◆珍らしい病気
 神田今川橋の横に口入業(蝋燭町)有馬屋というがありました。この有馬屋さんが田之助贔屓で何から何まで世話をしました。ところである時舞台で足の先を撲った。ソレからというものはズンズン痛みを覚えて勤まりませんので、右の有馬屋さん−当今もありますが神田五軒町の小稲てんぶら(これは有馬屋の娘分、実は妾でした)で、田之助が有馬屋さんに逢い、かくかくと話すと、ソレは良医に診て貰えとて名は忘れましたがさる御殿医に診て貰うと、「これは越後奥州地方にはあるが珍らしい病気だ。ダッソだから打捨っては置かれぬ。といって私が療治はして上られぬから、佐倉の医者を呼んで療治して貰いなさい。手紙をつけるから」というので、番頭を佐倉へ立たせたのです。
◆美男が凄い顔
 佐倉の医者も表向き河原乞食だから診てやれぬ、どこかへ家を借りるなら療治をして見ようとなったので、両国の大纏(相撲)の二階を借りて診て貰ったが、五日問ソコに居るてえと、段々痛みが嵩じて体は痩せる、足は腫れる。美男が痩せたから凄い顔となりました。で佐倉の医者の申すには「コレは脚を切断せねばならぬ。ソレには縁者一同連判して、横浜のヘボン氏に切ってお貰いなさい」となりました。
◆鋸でガリガリ
 で親類縁者といえば故人助高屋高助(すけたかやたかすけ)と、田之助の姉のお歌さん、妹で品川の女郎屋青柳の家内、芝居茶屋紀の国屋等が連判で、横浜のへボン氏の許へ往く、「造作もない」とてなかなか洒落(しゃらく)な西洋医師で、いよいよ切断日は、「ドウです、田之さん痛いかネ」と言いながら、ポケットから小さな瓶を出して鼻の所へやる。今から考えると麻酔薬ですな。ですから田之助はグーと眠るてえと、脚を捲(まく)った上、下から切り、皮をタルマして置いて、骨をば鋸でガリガリと切ってしまい、タルンでいる皮を被せ、縫ってしまって「サアこれで宜い」との事、呆れぬものはなかったのです(今の外科手術ですな)。
◆芸妓衆のつらね
 切った脚は義足を拵えて貰い、穿(は)いたので、再び歩ける身となりました。この節ヘボン氏が悉く女を慎しめと言われたが、元来が打つ、呑む、買うの三拍子揃った田之助ゆえ少しも慎しみがない、六月の天王(芝居町)の祭に手古舞となって、金棒引(かなぼうひき)に出たので大層もない評判、その後一世一代で国性爺を演(し)た時、芸妓五人の褒言葉というのがありました。芸妓は花道へズラリ列び「田之助さんを褒めやんしょ」とツラネを述ぺたんです。
◆両の手も腐る
 ところが大阪からこの田之助を買いに来て乗込みました。これが一代の晴れ芝居で、明鳥の浦里を演ったそうです。しかるに段々両手の指先も腐れ始めて、赤い布で纏(まい)ていました。気の毒なもんでした。「大夫さん冗談言っちゃア不可ませんよ」と転がした日には起ることが出来ないで大騷ぎ、達磨様同様で・・・終に浅章千束町へ芝居茶屋千巻屋の世話にて家を持ち、亡くなったのは明治十一年七月七日で、享年三十四歳、借しい夭死(わかじに)でした。


参考文献:
    『幕末百話』 篠田鉱造

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